夫の秀男がやや荒々しい足音をたてて寝室に入ってきたとき、日登美は自分の布団《ふとん》に娘の春菜を寝かしつけたばかりだった。
「まったく何を考えていやがるんだ、あいつは」
秀男は憤懣《ふんまん》やるかたないという表情で、どかっと枕元《まくらもと》にあぐらをかいて座り込むと、吐き捨てるように言った。
「あなた、大きな声を出さないで。今、寝付いたばかりだから」
日登美はしっというように、唇に人差し指をあてた。
三つになったばかりの春菜は、幼児のわりには寝付きの悪い方で、おまけに、ちょっとした物音にも敏感に目を覚ます性《たち》だった。
「あ、すまん……」
秀男は、はっとしたように、かたわらの布団の中で親指をしゃぶりながら眠っているわが子の方を見た。幸い、春菜は目を覚ますこともなく、すやすやと寝息をたてている。
愛娘《まなむすめ》の寝顔を見つめる秀男の顔が少し和らいだ。
しばらくそうやって、娘の寝顔を見つめていたが、秀男はふいに押し殺した声で言った。
「……あいつにはやめてもらうことにしたからな」
日登美はちらと夫の顔を見ただけで何も答えなかった。
何も言わなくても、日登美が夫のこの決意を誰よりも喜んでいることを、秀男は十分承知しているはずだった。
「さっきも酒|呑《の》んで帰ってきたから、ちょっと意見したら、白目を剥《む》いて俺《おれ》を睨《にら》みつけやがった。休みの日くらい何をしてもかまわんが、まだ未成年なんだから酒は呑むなと言っただけなのに。まるで狂犬みたいな目付きで睨みやがるんだからな。ついかっとして、明日の朝、荷物をまとめて出て行けってどなりつけてやった」
秀男は、再びこみあげてきた怒りを押さえるように、あぐらをかいた自分の右膝《みぎひざ》を拳《こぶし》で殴りつけた。
「……新庄さんから紹介された手前、俺の手で一人前にしてやりたかったんだがな。レジの金に手をつけるわ、未成年のくせに酒はくらうわ、おまけにちょっと意見すれば、こっちが悪いみたいな目付きで睨みつけやがる。可愛《かわい》げってもんがこれっぽっちもない。俺にはもうあいつの面倒は見切れんよ」
最後はため息混じりの声でつぶやく。
「しょうがないわ……」
日登美は夫を慰めるように囁《ささや》き声で言った。
「あなただって、あの子のためにやれることはすべてやったんだから。それで駄目だったんだから、新庄さんだって、きっと分かってくださるわ」
「お義父《とう》さんに話してこようか。事前に相談するべきだったかもしれないけれど、俺もついかっとしてしまって」
秀男は、ふいに悪びれたような顔になると、そう言って立ち上がりかけた。
「いいわよ、明日で。もう遅いから父も寝てるわ」
日登美は立ち上がりかけた夫をあわてて制した。
「そうか……」
秀男は枕元の目覚まし時計の方をちらと見やると、思い直したように、浮かしかけた腰を降ろした。目覚ましの針は、午後十一時をとうに回っていた。
日登美の父、徹三は、春菜の兄にあたる孫の歩《あゆみ》と一緒に、階下の部屋で既に眠りについている頃だった。
「それに……」
日登美は囁き声で付け加えた。
「お父さんも賛成してくれると思うわ。実をいうと、あの子のこと、最初からあまり心よく思っていなかったみたいだから」
「そうなのか?」
秀男は初耳だという顔で聞き返した。
日登美は黙って頷《うなず》いた。
「それならどうして、それを俺に言ってくれなかったんだ」
秀男は不満そうに言った。
「だって、店のことはもうすべてあなたに任せたのだから、従業員を雇うも辞めさせるもあなたの裁量で決めればいいことだって……」
日登美はやや口ごもりながら言った。
「でも……」
秀男は抗議するように口を開きかけたが、彼なりに徹三の胸のうちを察したらしく、結局何も言わずに口を閉じた。
日登美の家は新橋《しんばし》の駅前にあり、祖父の代から、『くらはし』という小さな蕎麦《そば》屋を営んでいる。
秀男は中学を卒業するとすぐに徹三のもとにやってきた。住み込みで定時制高校に通いながら、蕎麦粉の選び方から蕎麦打ちまで、職人|気質《かたぎ》の徹三にみっちりと仕込まれた。
やがて、一人娘の日登美が短大を卒業した年に、徹三は秀男の実直な性格と腕を見込んで、婿養子として迎え入れたのだ。
翌年、長男の歩が生まれると、徹三は、まだ五十代の若さだというのに、何を思ったのか、店のことは若夫婦に任せると言い出した。自分は厨房《ちゆうぼう》には出るが、店の経営については今後一切口を出さないというのである。
でも、日登美は知っていた。これが婿養子の秀男が萎縮《いしゆく》しないで家業に専念できるようにと父なりに考えたことであることを。
というのも、徹三と秀男では、店の将来に関して、かなり異なった意見を持っていたからだ。
徹三は、祖父譲りの職人気質の男で、蕎麦の味や品質には徹底的にこだわる方だったが、経営者としてはかなり無頓着《むとんちやく》で、店の規模はあまり広げず、小さくても近隣の顧客に末長く愛される店でいいと思っていたようだが、秀男の方はそうではなかった。
将来的には店の規模ももっと広げ、いずれは日本全国にチェーン店を持つほどにしたいという、事業家としての野望も密《ひそ》かに抱いているようだった。
そんな両者の考え方の違いから、いずれ生じるであろう衝突を、徹三は自分が経営から身を引き楽隠居《らくいんきよ》を気取ることで、賢明にも避けようとしていたのだということを、日登美はよく解っていた。
日登美自身は、父の考えに近いものを持っていたが、夫の気持ちも解らないわけではなかった。
いずれは日本全国にチェーン店を持ち、「くらはし」の味を全国の人に知ってもらう。
しかし、そんな夢がそうやすやすとかなえられるはずがない。日登美には夫の野望が夢のまた夢のような気がしていた。
ところが、そんな秀男の夢が、ひょんなことから現実化の兆しを見せたのは、今からちょうど半年ほど前のことだった。
それは、店のことがある雑誌の「隠れた名店紹介」という特集記事に取り上げられたことがきっかけだった。その雑誌を見たという一人の男がふらりと店を訪ねてきたのだ。
男の名前は新庄|貴明《たかあき》と言った。時の大蔵大臣、新庄信人の秘書であり、女婿でもあるという男だった。
新庄貴明は、蕎麦の旨《うま》い店があると聞くと、じっとしていられないというほどの無類の蕎麦好きらしかった。
幸い、「くらはし」の味は、かなりの蕎麦通らしい新庄の舌をも満足させたようで、すっかり「くらはし」のファンになった新庄は、忙しい合間をぬって何度も店に足を運んでくれるようになった。
一人でふらりと来ることが多かったが、時には、家族連れで来ることもあった。舅《しゆうと》にあたる信人も何度か婿に連れられて来たこともあった。
こういったことが、自然に人の口の端にのぼって、それが、「くらはし」にとって、格好の宣伝になったことは言うまでもない。
しかも、ともに女婿という立場で、年齢的にも近かったせいか、新庄貴明と秀男は、すぐに意気投合し、まるで十年来の旧友のような親しさで口をきくようになった。
慶応の法学部出身だという新庄は、百八十を越える長身にイタリア製のスーツを一分の隙《すき》もなく着こなし、見るからにサラブレッドという感じの男だったが、その性格は意外に気さくで庶民的なところがあった。
秀男が、「くらはし」の味をもっと全国的に広げたいという夢を持っていることを知ると、新庄は、自分にできることなら何でも援助しようと言い出した。
実際、彼の口きき(というか、陰で舅である信人が動いたのだろうが)で、今まで融資を受けることが難しかった或《あ》る大手銀行から、多額の融資を受けられるようになったのである。
ただ、その見返りというわけでもあるまいが、新庄の方からも秀男に頼みたいことがあると言い出した。
知人の息子で高校を中退してぶらぶらしている少年がいるのだが、この少年を預かってくれないかというのである。「くらはし」で修業させて、将来は店一軒任せられるくらいの蕎麦職人に育てあげてほしいというのだ。
この話は、秀男にとっても、まさに渡りに船だった。いずれ、店の規模を広げれば、従業員の数も増やさなければならない。
それならばいっそ、今から、自分の手元で、全く白紙状態の若者を、一から仕込んでみたいと秀男は思ったのだ。自分が徹三のもとでそうしてきたように。徹三と徹三の父が作り上げた「くらはし」の味を守るためにもその方がいい。
新庄の話では、その少年は群馬の出身で、父親を早くに亡くし、病身の母親と二人きりだという。その母親とは古い知り合いとかで、息子の就職の世話を頼まれていたらしい。
新庄貴明の知人の息子であるならば、身元の上でも信用がおけるに違いないし、新庄は、東京での身元保証人には自分がなるとも言ってくれた。
悪い話ではない。
秀男は、彼なりの計算と思惑から、まさに二つ返事で、新庄の申し出を受けたのである。
そして、やってきたのが、十八歳になる矢部稔という少年だった。
矢部稔は、大柄で手足ばかりひょろ長い無口な少年だった。矢部が身の回りのものだけを詰めたボストンバッグを持って立っているのをはじめて見たとき、日登美は奇妙な胸騒ぎのようなものをおぼえた。
うつむきがちな少年の目が、時折、ふてぶてしいまでの強い光りをおびて、上目使いに自分に注がれることに、生理的な不快感を感じたのだ。
なんだか扱いにくそうな子……。
日登美の矢部に対する第一印象はあまり良いものではなかった。
日登美のこの直感がはずれていなかったことは、矢部を雇いいれて二カ月ほどで思い知らされることになった。
最初の一カ月くらいは、少年はまさに借りてきた猫の子状態でおとなしくしていた。秀男や徹三の言うこともよく聞き、店の掃除をはじめとする「修業」に黙って従っていたが、それも長くは続かなかった。そのうち本性を現しはじめたのだ。
だんだん仕事を怠けるようになり、秀男や徹三が意見しても素直に聞き入れず反抗的な態度を示すようになった。隠れて喫煙や飲酒もしているようだった。
どうやらレジの金にまで手を出しているらしいと最初に気づいたのは、会計を受け持っていた日登美だった。
何度計算しても売上の帳尻《ちようじり》が合わないことに不審の念を抱いた日登美は、まさかと思い、それとなく矢部の素振りを見張っていたら、ある日、矢部がレジの金をズボンのポケットにねじ込むのを見てしまったのだ。
日登美はこのことをすぐに秀男に告げた。そして、それとなく、矢部を辞めさせるようにほのめかした。
しかし、秀男は苦い顔をしながらも、矢部を解雇することには同意しなかった。何よりも、紹介してくれた新庄貴明のメンツが潰《つぶ》れることを気にしていたのだろう。
「俺から注意しておく」と憮然《ぶぜん》と言い放っただけだった。
だが、矢部の言動は悪くなる一方で、少しも改まることはなかった。そして、ついに、秀男の堪忍袋の緒《お》が切れてしまったというわけだった。