ようやく秀男が布団に入って軽いいびきをかきはじめた頃、日登美は階下の風呂場《ふろば》に行くために、パジャマと着替えを持って、そっと寝室を抜け出した。
忍び足で、古い木造の階段を降り、北向きに伸びる廊下を歩いた。階下はしんと静まりかえっている。
この廊下沿いにある部屋の手前まで来ると、日登美の足はふと止まった。矢部稔に与えた部屋があるのだ。矢部はまだ起きているらしかった。天井の裸電球だけが灯《とも》る薄暗い廊下に、ドアの隙間《すきま》から漏れる明かりが白い筋を作っている。
中から物音は聞こえてこない。
日登美は、なんとなく緊張しながら、その部屋の前を足早に通り過ぎた。
風呂場の脱衣所で衣類を脱ぎ、腰まである長い髪をピンを使って器用にたばねてから、祖父の代から使っている古風な檜《ひのき》作りの風呂|桶《おけ》の蓋《ふた》を取った。
手をいれてみると、湯垢《ゆあか》の浮いた風呂の水はだいぶぬるくなっていたが、夏場ということで、沸かし直すほどではなかった。春菜が徹三と一緒に入ったときに遊んだらしい黄色いあひるのおもちゃが湯船に浮かんだままになっていた。
日登美はざっと身体を洗ってから、湯船に入った。
ぬるま湯に肩まで浸《つ》かると、今日もこれで一日が無事に終わったというようなほっとした気持ちになった。
しかし、今回はその安堵《あんど》感には別の意味もあった。
明日の朝、矢部稔がこの家から出て行ってくれれば、自分の胸に巣くっていた、あの言い知れぬ不安のようなものも消えてなくなるのだ。
そう考えると、思わず、安堵のため息が日登美の唇から漏れた。
日登美は、入浴剤のために緑色に染まった湯を片手で掬《すく》って、自分の剥《む》き出しの両肩にかけた。ぴちゃぴちゃという水音が、夜のしじまのなかでやけに耳に響く。
日登美の染みひとつない白い肩は、湯水を玉にしてはねかえした。二十六歳になるというのに、その肌《はだ》の透明感と肌理《きめ》の細かさは十代の少女のようだった。
日登美の肌はほんとにきれいだねえ……。
まだ幼い頃、今は亡き祖母と一緒に風呂にはいったときなど、祖母は孫娘の肌を慈しむように撫《な》でながら、口癖のようにそう言ったものだ。
お母さんにそっくりだねえ……。
祖母はそうも言った。そして、そう言ったあと、必ずしまったという顔になって、気まずそうに黙りこんでしまった。
日登美は母の顔を知らない。日登美を生んですぐに亡くなったと聞かされていた。どういうわけか、母の写真はうちには一枚も残っていなかった。自分を生んでくれた人のことが知りたくて、父に尋ねても、父は苦い表情になって、その話題を避けるような素振りを見せた。
祖父母に聞いても、やはり同じような反応が戻ってきた。いつしか、子供心に、日登美は母のことは話題にしてはいけないのだと思うようになっていた。
それでも、成長するにしたがって、自分が母親似らしいということを、祖父母のちょっとした言葉で察することができた。
中学に入った頃、父と母が正式に結婚していなかったことを知った。母が父の籍に入る前に日登美が生まれてしまい、その直後に母が病死してしまったからだと祖母は話してくれたが、そのときの祖母の顔付きから、どうやら、父と母が正式に夫婦になれなかったのは、それだけの理由ではなさそうだということに、聡明《そうめい》な少女は薄々気が付いていた。
しかし、母を知らないからといって、日登美は寂しい思いをしたことは一度もなかった。祖母が母代わりになってくれたからだ。その祖母も日登美が高校二年の冬に病死した。
日登美が短大に入った年に、まるで妻を追うように他界した祖父も、たった一人の孫娘をそれは嘗《な》めるように可愛《かわい》がってくれた。
祖父母だけではなかった。
父の徹三が日登美をどれほど愛していたかは、父が母が亡くなったあとも妻帯せず、戸籍の上ではずっと独身を貫き通したことでも、窺《うかが》い知ることができた。
家族の愛情には十分すぎるほど恵まれて育ったと日登美は思っている。
しかも、同じ屋根の下で何年も暮らし、いつのまにか兄のように慕うようになっていた秀男と結婚したあとも、すぐに二人の子供に恵まれ、秀男との相性もよく、この六年というもの、言い争いひとつしたこともない。
平凡だが幸福な二十六年だったとしみじみ思う。
ただ……。
その曇りない青空に、ある日突然、一人の少年が黒い不吉な影となって現れたのだ。
でも、この黒い影も明日になれば消えてなくなる。矢部稔がこの家から出て行ってくれさえすれば、また今までどおりの平穏な、信頼できる家族だけの日々を取り戻すことができるのだ……。
日登美はそう信じて疑わなかった。