風呂場の外でカタッと物音がした。
湯船に浸《つ》かってすっかりくつろいでいた日登美は、その物音に、はっと身を強《こわ》ばらせた。
誰かが脱衣所の戸を開けて入ってきたような気がしたのだ。
誰?
日登美は耳をすませた。
秀男も徹三も既に眠っているはずだ。もし、誰かが入ってきたとしたら、それは……。
日登美は矢部稔の部屋の明かりがまだついていたことを思い出した。
まさか……。
「誰?」
日登美は湯船に浸かったまま、思い切って声を出してみた。
風呂場と脱衣所を仕切る磨《す》りガラス戸の向こうに誰かいるような気配を感じた。
返事はなかった。
やがて、またカタカタという音がしたかと思うと、その気配が消えた。
日登美は湯船からあがると、磨りガラス戸をそうっと細めに開けて見た。
脱衣所には誰もいなかった。
しかし、誰かが入ってきたような気がしたというのは、けっして気のせいではない。その証拠に、しっかり閉めたはずの脱衣所の戸が僅《わず》かに開いていた。
たぶん、入ってきたのは矢部稔だったのだろう。日登美の声を聞いて、慌てて逃げ去ったに違いない。
日登美はほっとすると同時に、なんともいえない嫌《いや》な気分になった。
こんな経験ははじめてではなかった。前にも二、三度経験していた。夜遅く、終《しま》い湯に入っていると、こっそり誰かが覗《のぞ》きに来るのだ。それが矢部稔であることも見当がついていた。
日登美が矢部をなんとなくうとましく思い始めたのも、実は、秀男や徹三には打ち明けてはいなかったが、矢部のこうした行動に気づいた頃からだった。
店にいるときも店に続いた住居にいるときも、ふと粘りつくような人の視線を感じて振り向くと、そこには必ず矢部稔の姿があった。目があうと、少年はすぐに視線をはずして、こそこそと日登美の視野から逃げ出した。
それだけではなかった。
物干しに干しておいた下着がいつのまにかなくなっていたり、脱衣所の籠《かご》にきちんと脱いだはずの衣類が妙に乱れていたりしたこともあった。
十八歳の少年が、八歳も年上で、おまけに二人も子供のいる女に変な感情を持つはずがないと、胸にわいた疑惑を打ち消そうとしても、どうしても打ち消しきれないものが残った。
矢部稔が来る前はこんなことは一度もなかったからだ。
矢部を預かったとき、最初の頃は、まだ少年だからと、母親役をやるのは無理にしても、せめてなんでも気楽に相談できる姉のような存在になろうと思っていたが、そんな思いは次第に日登美の中で薄れていった。
矢部と接していても、可愛《かわい》いという気持ちがまったく湧《わ》いてこなかった。可愛いどころか、自分よりもはるかに上背のある矢部が、無言でぬっと目の前に立ちはだかったりすると、恐怖に近いものを感じた。
物言いや立ち居振る舞いにはまだ幼さのようなものが残っていたが、身体だけはもう立派な大人だった。
体格は、男としてはやや小柄な部類に入る夫の秀男よりも良いくらいだったのだ。本気で格闘にでもなれば、秀男の方が負けるのではないかと思うくらいだった。
今のところ、矢部は日登美の回りをこそこそとうろつくだけで、それ以上のことは何もしなかったが、それがだんだんエスカレートしていかないという保証はなかった。
それに、秀男や徹三にどなられたり、時には横面《よこつら》の一つも張り飛ばされることがあっても、矢部は野良犬のように白目を剥《む》くだけで、腕力に訴えたりすることはなかったが、矢部の中に蓄積されたものがいつマグマのように噴出するか分からない。
矢部稔という少年の内部には、いわば一触即発的な凶暴さのようなものがあることに、日登美は本能的に気づいていた……。