パジャマ姿のままで、風呂桶の湯を落としていると、ふと子供の泣き声を聞いたような気がした。
日登美は作業する手をとめた。
泣き声は二階の方から降ってくる。
春菜の声のようだ。
どうやら、また目を覚ましてしまったらしい。
日登美はやれやれというように、ため息を一つつくと、足早に風呂場を出た。
矢部の部屋の前を通るとき、何げなく見ると、部屋の照明は既に消えていた。
階段の下まで来ると、案の定、階段の一番上の段に春菜が腰かけて泣いていた。
ピンクのパジャマに、お気に入りのペンギンのぬいぐるみを抱いている。
「どうしたの? また怖い夢でも見たの」
日登美は足音を殺して階段を昇りながら、泣きじゃくっている幼い娘に優しく声をかけた。
春菜は母親の顔を見ると、安心したように泣きやみ、鼻水をすすりあげている。
「おまえ……お顔に何をつけているの?」
春菜を腕に抱き取ろうとして、日登美は娘の頬《ほお》のあたりに赤いものが付いていることに気が付いた。
この子ったら、またわたしの口紅をいたずらしたのかしら……。
日登美はとっさにそう思った。
以前、寝室に置いてある鏡台から口紅を見つけだして、顔中に塗りたくったことがあったからだ。インディアンの子のようだと家中で大笑いになったことがあった。
日登美はくすっと笑いながら、指で娘の頬をぬぐった。日登美の指には赤いものが付いてきた。それを間近で見た瞬間、日登美の顔から笑みが消えた。
それは口紅ではなかった。
何これ……?
日登美は呆然《ぼうぜん》としたように指の腹を見つめた。
それに、よく見ると、赤い染みがついているのは顔だけではなかった。春菜のパジャマにも点々とついているではないか。胸に抱いていたぬいぐるみの陰になって気が付かなかったが。
まさか……血?
そう思い当たった途端、日登美の顔からまさに血の気が引いた。
一瞬、春菜が怪我《けが》をしたのではないかと思ったからだ。
「どうしたのっ? どこが痛いのっ」
日登美は慌てて娘の身体を調べた。しかし、パジャマをめくりあげて素肌を調べても、春菜の身体にはどこにも傷らしきものは見当たらなかった。
怪我をしたわけではないらしい。
ほっと一安心しながらも、日登美は小首をかしげた。
この赤いものは血ではないのだろうか。もし、血だとしたら、一体どこで……。
日登美は春菜を胸に抱き取り、何げなく、二階の廊下の奥の寝室の方を見た。
襖《ふすま》が開いたままになっている。
そのとき、妙なことに気が付いた。
秀男が起きてこないことだった。
春菜はかなり前から大声で泣いていたはずだ。隣に寝ていた秀男がその声で目を覚まさないというのは、考えてみると妙だった。
あなた……。
日登美の身体に電流のような悪寒が走った。
一度胸に抱き取った春菜を慌てておろすと、日登美は半ば駆けるように廊下を走って、寝室の中に転げこんだ。今が夜中だということは既に日登美の頭にはなかった。
秀男はそこにいた。
掛け布団《ぶとん》の半ば剥《は》ぎ取られた布団の上に仰向《あおむ》けに大の字になっていた。
血まみれで……。