朝方、上野で神聖二と落ち合って乗り込んだ特急あさまは、昼前には、長野駅に到着した。
「連絡しておきましたから、駅に村長が迎えに来ているはずです」
棚にあげた日登美のスーツケースをおろすのを手伝いながら、神聖二が言った。
聖二の話では、日の本村は、長野市街からさらに車で二時間以上も行った山奥にあるのだという。
駅の改札を抜けると、聖二は村長の姿を探すようにきょろきょろしていたが、すぐに片手をあげた。
すると、それに応《こた》えるかのように、待合所の椅子《いす》に背中を丸めて腰掛けていた六十年配の男が弾《はじ》かれたように立ち上がった。
小太りの短躯《たんく》を転がすようにして、こちらに駆け寄ってきた。
「これはこれは……。日登美様、春菜様。お待ち申し上げておりました」
赤ら顔の村長は、満面に笑みを浮かべてもみ手をするような仕草を見せた。
「村長の太田さんです」
聖二が短く紹介した。
「太田でございます」
村長はそう言って、ぺこぺこと米つきバッタのように何度も頭をさげてから、大仰に細い目を見開いて、日登美と春菜を交互に眺めた。
「あれまあ、ほんとうに、日登美様は緋佐子様に瓜《うり》二つですなあ。春菜様の方は、これまたお小さい頃の緋佐子様にそっくりで……。まっこと血は争えませんなあ」
感心したようにそんなことを言う。辺りはばからない破れ鐘のような大声で、しかも「様」付けで呼ばれて、日登美は気恥ずかしさにもじもじした。
日登美に手をひかれた春菜はぽかんとした表情で、村長の田舎の好々爺《こうこうや》めいた顔をめずらしそうに見上げていた。
村長は、駅舎を出ると、三人を車を停めた所まで案内した。小豆色《あずきいろ》の古びた国産車の車体には、いかにも長い山道を走り抜けてきたとでもいうように、あちこちに泥がはね飛んでいた。
長野市街を出て小一時間も走ると、窓から見える景色は山また山ばかりになった。その山々に挟まれた曲がりくねった細い山道を、持ち主同様、かなり年季の入った中古車は、ぜいぜいと息を切らすように走り続ける。
その間、太田村長は運転をしながら、日の本村の由来について、聞きもしないのにぺらぺらと喋《しやべ》り続けていた。
村長の話によると、日の本村ができたのは、今から千数百年以上も昔に溯《さかのぼ》り、開拓者は古代の大豪族として知られる物部《もののべ》氏であった。
大和《やまと》の大豪族だった物部氏が、当時は科野《しなの》と呼ばれ、あまり開けてはいなかった信州の山奥になぜ移り住んだのかというと、それにはこんな歴史的ないきさつがあったという。
欽明《きんめい》天皇の時代、仏教が伝来し、それをめぐって崇仏《すうぶつ》派の蘇我《そが》氏と、排仏派の物部氏が激しく対立した。
物部氏の「物」とは本来「霊《もの》」を意味し、物部氏は、日本にはじめて神道を持ち込んだ祭祀《さいし》集団でもあった。
天皇の外戚《がいせき》として勢力を延ばしつつあった蘇我氏は、仏教を使って、それまで強大な権力を握っていた神道派の物部氏を潰《つぶ》そうと画策したのである。
そして、五八七年、用明《ようめい》天皇の時、蘇我|馬子《うまこ》の率いる蘇我氏が、物部|守屋《もりや》率いる物部氏を打ち破り、古代の大豪族物部氏は没落した。その後、仏教が公認され、蘇我氏が中央権力の座についた。
一方、権力の座を追われた物部氏の残党は、東北や信州に辛くも逃げ延びた。その残党の中には、物部守屋の一子がいて、日の本村を作ったのは、その守屋の子であるとも伝えられているという。
「そもそも、この日本という国号は、物部氏の神祖によって付けられたと言われておりますのじゃ……」
村長は誇らしげに言った。
物部伝承によれば、物部氏の神祖であるニギハヤヒノミコトが、天磐船《あめのいわふね》に乗り、天降《あまくだ》りしたとき、「虚空《そら》に浮かびてはるかに日の下を見るに、国有り。因りて日本《ひのもと》と名付く」と言ったとあるという。
つまり、「日本」という国号は、太古、九州から大和一帯を実質的に支配していた物部王国の国号だったというのである。
それが、物部氏の没落後、大和朝廷によって取り上げられ、それまでの「倭《わ》」に代わって使われるようになったのだという。
「おそらくは……」
村長は妙にしみじみとした声でこう付け加えた。
「大和を追われ、科野の山奥に蘇我氏の厳しい詮索《せんさく》の目を逃れて隠れ住まざるをえなかった我がご先祖様は、過去の栄華をしのんでか、あるいは、いずれ、再び権力の座に返り咲くことを祈願してか、村に「日の本」という名前を付けたのでしょうなあ。……まあ、こんな山奥ですから、自慢できるものといえば、蕎麦《そば》と温泉くらいのもんですが、あの物部氏の末裔《まつえい》ということで、村人はみな誇りをもっておりますのじゃ……」