蕎麦……。
日登美は村の由来のことよりも、村長が何げなく口にした蕎麦という言葉が気にかかった。
「お蕎麦がおいしいんですか」
ついそう聞いてしまった。
「はあ、それはもう。ここの蕎麦は絶品ですわ。信州はもともと蕎麦所ですからな。戸隠《とがくし》蕎麦なんてのも有名ですが、わしに言わせりゃ、日の本村の蕎麦には遠く及びません。ここの蕎麦が信州一、うんにゃ、日の本一じゃて……わっははは」
村長のお国自慢を適当に聞き流しながら、日登美はふと思った。
伯母のタカ子の話では、徹三は若い頃、良い蕎麦粉を求めて、蕎麦所をあちこち旅して歩いたということだった。
そのとき、きっと、日の本村の蕎麦の噂《うわさ》をどこかで聞いて、こんな山奥まで足を延ばしたに違いない。そして、そこで巫女《みこ》だった母と運命的な出会いをしたのだ……。
「……あと、白玉温泉というのがありますのじゃ」
いっときも黙っていられない性分らしく、また村長が言った。
「これは、別名|日女《ひるめ》の湯とも言われて、日女様の肌《はだ》が神々《こうごう》しいばかりに白く美しいのは、この温泉を産湯《うぶゆ》にしているからだと言われております。どんな醜女《しこめ》でも、この湯に入れば、たちどころに、日女様のようなすべすべ肌の美人になれるというので、旅行案内にも載っていないようなちっぽけな村だというのに、どこで聞いたのか、時折、都会の若い女の子たちが群れをなして訪ねてくることもあるくらいでして……。
まあ、三日も滞在して、朝晩温泉に浸《つ》かっていれば、ニキビだらけの女の子も、多少は見られる御面相になって帰っていきますわ。とはいっても、さすがに、その昔、大神にその美しさを愛《め》でられたという日女様のようには逆立ちしてもなれませんがな、わははは」
「そういえば……」
日登美は、村長にというよりも、さきほどからずっと黙って助手席に座っている神聖二に向かって言った。
「その大神というのは一体……?」
聖二が奉職しているという古社では、一体どんな祭神を祀《まつ》っているのだろう。ふとそんな疑問がわいたのだ。
「天照《あまてらす》大神《おおみかみ》ですよ」
しかし、底抜けに陽気な声でそう応《こた》えたのは、村長だった。
「天照大神?」
日登美は不思議そうに聞き返した。
「天照大神って、あの……?」
日本神話では、八百万《やおよろず》の神々の最高位に君臨するといわれている太陽神のことだろうか。
「でも、天照大神って女の神様ではなかったかしら……」
日登美はつぶやくように言った。
前に聖二から聞いた話では、日女は、いわば「神の妻」だということだった。しかも、今、村長も、「大神にその美しさを愛でられた云々」という言い方をしていた。女神である天照大神が、同性である巫女を「妻」として愛でるというのは、どうも変な話のような気がするのだが……。
「天照大神は……」
そう言ったのは聖二だった。
「本当は男神なのですよ」