「天照大神が男神……?」
日登美はびっくりしたように言った。バックミラーを見ると、聖二がミラー越しに話しかけるように、こちらに顔を向けていた。
「本来、神道とは、日祀《ひまつ》り、すなわち日神を祀ることをいうのです。ですから、神道派の物部氏は当然日神を祀っていました。しかし、それは女神ではなかった。本来は男神だったのです。
そもそも、太陽神はその名からして、陽神、つまり男の神であることが多いんです。エジプトからインド、中国と世界的に見渡しても、おおむね太陽神は男神とされています。
二世紀後半頃、神武《じんむ》天皇が大和いりしたとき、そこは既に物部氏によって支配されており、日祀りが盛んに行われていたのです。その場所は、奈良の三輪山《みわやま》あたりだったと言われています。今もそこには大神《おおみわ》神社という古社があります。その大神神社の摂社と言われる檜原《ひばら》神社は元伊勢とも呼ばれ、天照大神の御神体が伊勢神宮に移る前は、そこにあったと言われている所です……」
ところが、神武に大和の覇権を奪われた物部氏は、そのとき、内物部と外物部に分裂したのだという。神武にくみするものはそのまま大和に残って内物部となり、まつろわぬものは大和を離れ、東北方面に新天地を求めて外物部になった。
「……大和に残った内物部は、新朝廷の配下にくだりながらも、日祀りの主催者としての絶大な権力は持っていたのです。ところが、さきほど村長が言ったように、六世紀頃になって、仏教をめぐって、新興勢力の蘇我氏との戦いが起こった。そして、その闘争に敗れた内物部は、大和からも撤退せざるをえなくなったのです……」
その後、いったんは権力の座についた蘇我氏だったが、歴史的事件としても名高い大化改新で、やはり神道派だった中臣《なかとみ》氏によって滅ぼされ、この中臣氏がのちに藤原と姓を変え、中央権力の座に着いたのだという。
「……藤原氏はまず、唐にならって、天皇を頂点とするゆるぎない中央集権国家『日本』を造りあげようとしました。それには、天皇の絶対化、つまり、天皇は日神の直系であるがゆえに貴いとする万世一系の神話が必要だったのです。この頃、古事記や日本書紀が編まれた背景にはこうした事情があったのですよ。
そして、この神話には、神武以前から大和を支配していた物部の伝承や神話も多く取り入れられました。ただ、藤原氏としては、せっかく没落してくれた物部氏が息を吹き返すのを恐れたのか、物部神話を採用するにあたり、そのまま使うのではなく、かなりの歪曲《わいきよく》を加えたのです……。
その一つが、最高神である日神のいわば性転換でした。物部が男神として祀っていた日神を女神ということにしてしまったのです。もっとも、これは、日神に仕えた巫女である日女を神にまで昇格させたといった方がより正確かもしれませんが。
これには、おそらく、時の天皇が持統《じとう》という女帝であったことが大きく影響していたのでしょう。最高神を女性ということにして、持統とダブらせることによって、持統天皇を神格化しようと目論んだのです。
さらに言うと、物部が天照大神として祀っていたのは、物部の神祖であるニギハヤヒノミコトであったとも言われています。このニギハヤヒノミコトは記紀にも登場していますが、その描写は殆《ほとん》ど印象に残らないほど短く冷淡なものです。
藤原氏は、この物部の神祖が日本の最高神として後々までも語り継がれ、日本国民に崇拝されることを何よりも恐れたのです。そのことによって、物部の力が蘇《よみがえ》ることを……」