一夜日女。
それは、耀子の口から出た言葉でもあった。
「……この一夜日女というのは、一夜だけ若い日女を大神に妻として捧《ささ》げるという意味なのです。大神の正妻にあたるお方はあくまでも大日女様お一人なのですが、大日女様はもはやお若くはない。それで、大神をお慰めするために、もっと若い日女を一夜だけ大神に捧げるのです。
俗なたとえをすれば、大奥などで、年老いた正妻が、自分の身代わりに若い側女を将軍に差し出すようなものです。
この一夜日女は、ふつうは若日女の中から一人選ばれます。今度の祭りでは、真帆様という若日女が一夜日女に決まっていたのですが……」
聖二は続けた。
「それが、今日になって、真帆様には一夜日女の資格がなくなってしまったのです……」
「資格がなくなった?」
日登美が聞き返すと、聖二は苦い表情のまま頷《うなず》いた。
「一夜日女というのは、まだ経事のない女児でなければならないのです」
「けいじのない……というのは?」
聞き馴《な》れない言葉にとまどい、聞き返すと、聖二はこう言い直した。
「つまり、まだ初潮を迎えていないという意味です。ところが、今日になって、真帆様に初潮があったことが分かったのです……」
ああ……。そういうことだったのか。
日登美は、ようやく、大日女の住まいでの聖二と澄子のひそひそ話の意味が分かったような気がした。
「既に初潮を迎えてしまった真帆様には、もはや一夜目女の資格はなくなってしまったのです。しかも、困ったことに、他の若日女はみな真帆様よりも年長で、この条件に当てはまる方がいないのです。
こんなときは、しかたなく、若日女以外の日女の中から、この条件に当てはまる方を当てるということも過去にはあったようなのですが、今回は、これすらもできないのです。一番若い日女である瑞帆様は既に初潮を迎えているからです。
このままでは、今年の祭りでは、一夜日女の神事ができないことになってしまうのです。これは七年に一度の大事な儀式なのです。とりやめるわけにはいきません。
それで、あなたにお願いがあるのですが……」
聖二はいったん口をつぐみ、食い入るような目で、日登美をじっと見つめた。
「春菜様を一夜日女として戴《いただ》けないでしょうか」
「春菜を……?」
日登美は愕然《がくぜん》としたように目を剥《む》いた。
「もはや、春菜様以外に一夜日女の資格をもった日女はいないのです」
聖二は必死の形相《ぎようそう》で言った。
「で、でも、春菜はまだ三歳なんですよ? そんな子供に大事な神事がつとまると思っているんですか」
「つとまります。一夜日女は、大祭でのいわば主役のような存在ですが、実際にすることは、輿《こし》に乗っているだけのことなのです。これなら三歳の幼児にもつとまります。げんに春菜様よりもっと幼い方が一夜日女《ひとよひるめ》になったことも過去には何度もありましたから……。それに僕の見た限りでは、春菜様は普通の三歳児よりも、賢いししっかりもしている。春菜様なら十分つとまると確信しています」
「で、でも……」
日登美はまたもや聖二の雄弁さに押し切られそうになりながら、口ごもった。
いくらしっかりしているといっても、日登美から見れば、春菜は、ようやくおむつが取れたばかりの幼児にすぎないのだ。
そんな幼児に、大事な神事の主役などつとまるはずがない。ただ輿に乗っているだけといっても、ただじっと乗っているだけのことができないのが、あの年頃の子供というものではないか……。
「それに」
日登美の迷いを断ち切るように、聖二の声が冷ややかに響いた。
「これは大日女様からのご命令でもあります。僕としては伏してお願いするしかないのですが、大日女様のご命令とあれば、日女である限り、けっして背くわけにはいかないのですよ」
口調はあくまでもソフトだったが、その声の裏には、有無を言わせぬ強引さがあった。
それはちょうど、はじめて日登美のもとを訪ねてきたとき、日登美に日女として村に帰ってきてほしいと頼んだときと全く同じだった。
口調は丁寧なのだが、それはうわべだけのことであって、聖二の本心は、口ほど日女に対してへりくだっているようには思えなかった。
耀子の話では、大神の印をもって生まれてきた男子は、日女と同格、いや日女以上とみなされるということらしいから、聖二には、当然、自分が日女以上の存在であるという強い自負があるに違いない。
「大丈夫ですよ。心配することなど何もありません」
聖二の口調がまた優しいものに戻った。
「一夜日女は日女たちの憧《あこが》れの的なのです。一夜日女に決まったその日から一夜様と呼ばれて、村人から今まで以上の尊敬を受けることができるのです。あの大日女様とほぼ同等の扱いを受けるのです。あのとき、真帆様が泣いていらしたのも、その憧れだった一夜日女になれないことが分かって悔しかったからなんですよ。
祭りまであと一カ月半ほどあります。今から僕が春菜様に必要なことはすべて教えて差し上げます。ただ輿に乗るだけといっても、それなりの作法というものもありますし、多少、覚えて戴きたいこともありますから。それで、祭りまでの間、僕が春菜様をお預かりして一切のお世話をさせて戴きます」
「預かるって……?」
「預かるといっても、どこかへ連れていくわけじゃありません。寝起きを共にして、なるべく春菜様と一緒にいられる時間を多くもちたいのです。あの年頃の子供にものを教えるには、まず、こちらに心を開いて貰《もら》わないとやりにくいので……。
それに、一夜様に決まった上は、春菜様は今まで以上に大切なお方なのです。もし、祭りまでの間に、ご病気になられたりお怪我《けが》などされたら大変なことになります。そんなことのないよう、お守りする必要があるのです。
本来ならば、若日女以外の日女が一夜様に決まった場合は、潔斎といって、祭りの前と後のそれぞれ一カ月を、身を清めるために、大日女様のお住まいで過ごす習わしになっているのですが、春菜様はここに来てまだ日が浅いということもあって、今回は特別に、大日女様のお許しをもらって、僕が春菜様をお預かりすることにしたのです……」
聖二はそこまで話すと、「このことは僕から春菜様に話しておきます」と言って、話を切り上げるようなそぶりを見せた。
日登美はただただ一方的に聖二の話を聞かされているだけだった。聖二は最初、「ご相談したいことがある」と言っていたのに、結局、相談など何もなく、既に決まったことを報告しに来たにすぎなかったということに日登美が気が付いたのは、聖二が立ち去ったあとだった。
聖二にまたもや押し切られた形になってしまったことを幾分口惜しく感じながらも、日登美は、やや意地悪く思っていた。
確かに、春菜は聖二になつきはじめている。子供はきれいでやさしいものが好きなのだ。女のように美しく優しい聖二を、春菜が子供心にも気に入っているらしいことは、行きの列車の中で、聖二と遊ぶ春菜の楽しそうな様子を見ても分かった。
しかし、多少気に入ったからといって、寝起きまで一緒にすると思ったら大間違いだ。今まで春菜は日登美としか一緒に寝たことがないし、また寝ようとはしなかった。
一度、徹三のそばで寝かせようとしたことがあったが、結局、夜中に目を覚まして泣きながら日登美のもとに戻ってきてしまった。大好きな祖父とでさえ一緒に寝ることを拒んだ子が、昨日今日会ったばかりの聖二のそばでおとなしく眠りにつくとは思えなかった。
「一切のお世話をする」などと口では言っても、そう簡単に「お世話」などできるものではないのだ。幼児のパワーというものを甘く見すぎている。母親の自分でさえ、時にはへとへとに疲れるほど大変なことを、多少子供慣れしているとはいえ、独身の男にすぎない聖二につとまるはずがない。
列車の中での感触から、たやすくなつくと思ったのだろうが、その考えは甘い。
今夜にでも、聖二はそのことを思い知らされるだろう……。