日が暮れると、神家の台所はいつにもまして戦場のようになっていた。
日登美が何げなく台所をのぞいてみると、信江と手伝いの女性、それに加えて、聖二の婚約者だという村長の娘までがエプロン姿で、忙しそうに動きまわっていた。
しかも、台所のテーブルには、郁馬たち幼い子供が集まって、早い夕食をとっているようだった。
聞くと、今夜、村の顔役だけを集めて日登美母子の歓迎会を開くのだという。その準備に今から追われているようだった。
「何か手伝いましょうか」
女たちの猫の手も借りたげな忙しさをみかねて、日登美がそう申し出ると、信江は、激しくかぶりを振って、
「とんでもございません。日女様が台所にたつなど……。主人に知れたらわたしがきつく叱《しか》られます。用意ができましたらお呼びしますので、お部屋でお休みになっていてください」
と言うだけだった。
しかたなく、日登美は部屋に戻ってきた。春菜は聖二のところに行ったきりになっている。
手持ち無沙汰《ぶさた》だった。
そこで、ふと、松山にいる伯母のタカ子に手紙を書くことを思いたった。聖二の訪問をうけたあと、伯母には何も告げずにこちらに来てしまった。日の本村に帰ってきたいきさつを、知らせておいた方がいいと思ったのである。
何度も書き直しをしながら、長い手紙を書き終わり、それに封をしたとき、廊下に慌ただしげな足音がしたかと思うと、「ご用意ができましたので、お座敷の方に……」という信江の声がした。
座敷に行ってみると、既に膳は奇麗に並べられ、客人たちの姿もそろっていた。村の顔役だという年配の男たちの中には、あの太田村長の赤ら顔や日の本寺の住職の顔もあった。
聖二はといえば、白衣に袴《はかま》姿で、そういった顔役連中を尻目《しりめ》に上座に陣取り、膝《ひざ》に春菜を大事そうに抱いていた。
春菜はいささか眠そうな顔つきで、それでも、おとなしく伯父の腕の中で、機嫌《きげん》のいいことをしめす指しゃぶりをしている。
年配の男たちに混じって、若者の顔も何人か見えた。雅彦と光彦の顔は既に知っていたが、もう一人、同じ年頃の青年の顔があった。雅彦たちによく似ているところを見ると、おそらく、これが長野市内の会社に勤めているという四男の武彦だろう。
さらにもう一人、太田村長の隣に、二十四、五歳の体格の良い若者が座っていた。
瑞帆の姿はあったが、郁馬たち幼い子供の姿はなく、耀子の姿も見えなかった。
「耀子さんは……?」
燗《かん》をつけたとっくりを運んできた信江に聞くと、
「耀子様は少しお加減が悪いそうで、お部屋でお休みになっています」
信江はそう答えた。
日登美が席につくと、聖二が口火をきった。まず、村の顔役たちをひとりずつ日登美に紹介していく。
村長の隣に座っていた大柄な青年は、太田久信といって、村長の長男ということだった。太田美奈代の兄というわけだった。
「倅《せがれ》は今年三人衆の一人に選ばれましてな。見てのとおりの無骨者ですが、日登美様、どうかひとつよろしくお願いいたします」
村長はそう言って深々と頭をさげた。
「こら。おまえも日登美様に見とれてないで、はよ、ご挨拶せんか」
村長が傍らの息子を叱りつけると、うすらぼうっとした顔つきで日登美の方を見ていた太田青年は、慌ててぺこんと頭をさげた。
「なんだ。日女様に対してそのいい加減な頭のさげ方は。頭を畳にこすりつけて拝むようにするんじゃ」
なおも父親に口うるさく言われて、太田久信は、大柄な身体を窮屈そうにおりまげると、ガマのように畳にはいつくばった。
見ている日登美の方が恥ずかしくなるような光景だった。
「三人衆というのは……」
聖二が簡単に説明した。それは、耀子から聞いた話のとおりだった。
あとの二人もいずれ紹介すると聖二は付け加えた。そして、座敷の面々の紹介をすませると、事務的ともいえるような淡々とした声で、一夜日女が真帆から春菜に代わったことを一同に告げた。
すると……。
奇妙な沈黙が座敷を包んだ。
誰も何も言わない。皆、一斉に動きをとめた。
それまで満面に笑みを絶やさなかった太田村長でさえ、一瞬、その赤ら顔から笑みが拭《ぬぐ》ったように消えた。
しかし、それはほんのつかの間だった。
「春菜様が一夜様に……。それはめでたい。いやあ、めでたい。これは二重にめでたい」
村長の胴間声が座敷の沈黙を破った。
すると、それまで電池の切れた人形のように動きをとめていた他の客人たちも、一斉に口元にややぎこちない笑みを浮かべ、「めでたい、めでたい」と言い始めた。
聖二の音頭で祝杯があげられ、小一時間もすると、酒がはいったことで、それまでかしこまっていた男たちの様子が変わってきた。
とりわけ、窮屈そうに正座をしていた太田青年など、あぐらをかき、酒の回った父親譲りの赤ら顔をにたつかせ、男たちにお酌して回っている妹の美奈代にむかって、
「おまえ、すっかり聖二様の若奥様気取りじゃねえか」などと囃《はや》したてている。
美奈代は兄の言葉に耳まで真っ赤になって、男たちの野卑な笑い声から逃げるように座敷を出て行った。しかし、その丸みを帯びた背中には隠しきれない喜びのようなものがみなぎっている。
「聖二様。来年だなんて悠長なこと言ってないで、はやくあいつをもらってやってくださいよ。あいつときたら、うちにいても聖二様聖二様ってうるさくてしょうがねえんだから」
太田久信は、今度は聖二に向かってそんなことを言った。どっと笑い声がおこる。
聖二の方はといえば、義兄になる男にそう囃したてられても、苦笑のような微笑をちらと見せただけで、まるで他人事を聞くような素知らぬ顔をしていた。
いくら盃《さかずき》を口にしても顔には出ない性《たち》らしく、その白面はいささかの朱色にも染まっておらず、態度にも乱れが見えなかった。
そのうち、眠くなったのか、春菜がぐずりだした。
「春菜様、おねむですか」
聖二がすぐに気づいてそう聞くと、春菜は目をこすりながら、こっくりと頷《うなず》いた。
ふだんなら、春菜はとっくに布団《ふとん》にはいっている時刻だった。
「それなら、わたしが……」
日登美は慌てて立ち上がりかけた。男たちの酔態にうんざりしかけていたので、座敷を抜ける口実ができたことを喜んでもいた。
「いや、僕がやりますから」
しかし、聖二は立ち上がりかけた日登美を軽く制すると、春菜を抱き上げ、あやしながら座敷を出て行った。
座敷を抜ける口実を奪われて、日登美は内心がっかりしながらも座り直した。
「日登美様、ささ、おひとつ」
既にゆでだこのように真っ赤な顔になった村長が銚子《ちようし》の首をつまんで、膝《ひざ》でにじりよってきた。
「いやあ、このたびは、ご家族が大変な目にあわれたそうで……」
酒の勢いも手伝ってか、村長はあたりかまわぬ大声でそんなことを言った。
日登美は古傷に触られたような嫌な気がした。
「しかし、日登美様」
村長は酒臭い息を吹きかけながら、日登美の方に顔を寄せて、今度は囁《ささや》くように言った。
「こんなことを申し上げては何ですが、何事も大神のなされたことですぞ。日登美様と春菜様がこの日の本村にお帰りあそばされるよう、大神のご意志が働いたことなのですぞ……」
そう繰り返す村長の目は、とろんと酔っているようにみえたが、その目の奥の方に、妙に真剣な色がぬめぬめと底光りのように光っていた。
すべては大神の意志……。
聖二も同じようなことを言っていた。
新庄貴明の紹介で、矢部稔という少年を雇いいれたことも、その矢部が突然あんなことをしでかしたのも、すべては大神の意志だったとでもいうのだろうか……。
そのとき、日登美はあることを思い出してぞっとした。
通夜の席で、新庄貴明が言っていたこと……。
「……魔に見入られるという言葉がありますが、あの夜の彼はまさにそんな状態だったのかもしれません。矢部自身、あの夜のことを、まるで自分ではない何かに操られているようだったと言っているそうです……」
自分ではない何かに操られているようだった……?
まさか、それは……。
「こら、久信。おまえもこっちさ来て、日登美様にお酌でもせんか」
日登美の物思いは村長のどなり声で中断された。
父親の声に、だらしなくあぐらをかいていた太田久信は、のっそりと立ち上がってこちらにやってきた。
「どうぞ……」
太田青年はそう言って、グローブのような手で銚子の首をつかんで、日登美の前にぬっと差し出した。
その大柄な身体が自分の前に壁のように立ちはだかったとき、日登美は、ふいに悪寒のようなものが背中を走るのを感じた。
自分の方を上目使いで見ているこの青年に、なぜか、あの矢部稔の顔が重なって見えた。