「赤ちゃんを助けたかったって、それはどういう意味ですか」
日美香は、耀子の目を見据えて尋ねた。
何か聞き捨てならないことを聞いた。そんな気がしていた。
「それは……」
耀子は話そうか話すまいか、幾分迷っているように見えたが、
「あのとき、赤ちゃん、いえ日登美さんは、生まれ落ちるとすぐに、大日女様の託宣で、若日女になることが決まっていたのよ。でも、緋佐子様は生まれたばかりの赤ちゃんを若日女にはしたくなかった。なぜなら、もし、若日女になれば、やがて、一夜日女《ひとよひるめ》に選ばれる可能性があったから……」
「でも、一夜日女に選ばれることは名誉なことではないのですか。選ばれた日女にとっても、その日女を生んだ母親にとっても」
日美香は言った。真鍋の本にはそのように書いてあったからだ。
「そう……。とても名誉なこととされているわ。わたしも最初に生んだ女の子が一夜日女に選ばれたことがあるのよ。だから、そのことがどれほど名誉なことかよく知っているつもり。わたしが日女としてのおつとめができなくなってからも、日女としての地位を失わないで来れたのは、一夜日女の母だったからということもあるでしょうね……」
耀子はそう言ってから、こう付け加えた。
「でも、名誉に思うということと、母としてそれを願うということは全く違うわ……」
「え?」
日美香には耀子が言わんとしていることがよく理解できなかった。
名誉には思うが、それを願ってはいない……?
「たとえば」
耀子は言った。
「これはあくまでもたとえばの話よ」
耀子はそう念を押してから続けた。
「戦時中に、戦地に息子を送り出した母親は、もし息子の戦死を知らされれば、それを名誉に思うと口では言うでしょう。また回りからもそう言われるでしょう。お国のために大切な若い命を捧《ささ》げたのだから。でも、心の中ではきっと泣いているわ。だって、どんな大義名分をもってしても、息子の死を願う母親などこの世にいないでしょうから……」
口元に微笑すら浮かべてそう言う耀子の顔を、日美香は言葉もなく見つめた。
この人は……。
例え話を使って、何かを自分に伝えようとしている。
日美香はそう感じた。
耀子の立場でははっきりと口には出して言えないような重大な何かを……。
「日登美さんの場合は、まだおなかの子が男か女かも分からなかったと思うけれど、もし、女の子だったら……と思うものがあったのでしょう。だから、村を出たのよ。もし、女の子だとしても、その子が日女《ひるめ》の宿命を背負わなくてもいいように……」
耀子は遠いところを見つめるような目でそう言った。
「耀子さん」
日美香は耀子の顔を真正面から突き刺すように見つめたまま尋ねた。
「一夜日女の神事というのは、本当に、幼い日女を輿《こし》に乗せて村中を練り歩くだけの儀式なのですか?」
「…………」
耀子は何も答えなかった。
「輿に乗せられて社を出た一夜日女は本当に社に帰ってくるのですか」
そう畳み掛けても、耀子は曖昧な微笑を口元に浮かべたまま、「質問の意味が……よく分からないわ」と言うだけだった。
「日本の祭りのことを研究したある本にこんなことが書いてあったそうです。この村では、昔、生贄の儀式が行われていたらしいと……」
生贄などという不穏な言葉を使っても、耀子の顔は無表情に近かった。
「確かに……」
耀子はしばらく沈黙したのちに口を開いた。「そういうことが昔、今から百年以上も前までは、密《ひそ》かに行われていたらしいという話はわたしも聞いたことがあるわ。この村で祀《まつ》られている大神は祟《たた》り神なのよ。祟り神は、祀り方が不十分だと大きな災いをもたらすと言われている恐ろしい神。しかも、ここの大神は、たんなる山奥の小さな村の守り神というだけの存在ではなく、古くは、この日本の国そのものを守っていた神だったのだから、この神をおろそかにすることは、日本の国そのものを滅ぼすことになると、村の人びとは今でも本気で信じている……」
耀子はそう言って、日の本神社の背後に聳《そび》える鏡山の麓《ふもと》にあるという、蛇《じや》ノ口と呼ばれる底無し沼の話をしてくれた。
その昔、一夜日女を乗せた輿は、社を出て村を一巡すると、この蛇ノ口までやってきて、そこで輿をおろし、輿をかついでいた神官たちの手によって、一夜日女が生きたまま沼に投げこまれたという話を……。
今でも、沼のほとりには、生きながらにして沼に沈められていった数え切れないほどの幼い日女たちの霊を祀る小さな社が佇《たたず》んでいるのだという。
「もちろん、これは昔の話よ。明治よりもずっと昔の……」
耀子はすぐにそう言った。
「今では、その代わりに、その年の一夜日女の名前を書いた形代、つまり藁《わら》で作った人形を沼に沈めるだけなのよ。
それでも、今なお、一夜日女に選ばれることが名誉とされるのは、こうした過去の悲しい記憶があるからでしょうね。幼い日女たちの犠牲のもとに、この村、いえ、この国が、幾度もの大きな戦争や災害に遇《あ》っても滅びることなく復活し、繁栄し続けてきたのだという思いが村人の中に今も根強くあるから……」
しかし、そう言う耀子の目は全く別のことを無言で訴えかけていた。口とは裏腹の全く別のことを……。
日美香の背筋に戦慄《せんりつ》のようなものが走った。
蛇ノ口という底無し沼に、まだ幼い少女が生きながらにして投げこまれる……。
そんな身の毛もよだつような事が神事の名のもとに、千年以上もの間、この村では許されてきたというのか。
しかも、それは昔の話だというが、本当に昔の話なのだろうか……。
真鍋が見たという空っぽの輿は、まさに、この恐ろしい神事が今もなお、いや、少なくとも昭和五十二年まで続いていたことを物語っているのではないだろうか。
そう考えれば、日登美が潔斎中に病死したという娘の遺体に面会できなかったのも当然だった。幼い娘の遺体は、底無しともいわれる沼の果てしない奥底に沈んでしまっていたのだとしたら……。