祥代と昼食を共にした後、社に戻ってきて、上がってきたばかりの翻訳小説のゲラにチェックをいれはじめたが、蛍子の鉛筆を持つ手はつい止まりがちになった。
思いは、ややもすると、目の前に広げたゲラから離れて、先ほど祥代から聞いた話の方に漂ってしまい、なかなか仕事に集中できない。
土曜の夜、火呂は祥代のマンションには泊まっていなかった……。
祥代の口からそのことを聞かされて、蛍子は自分でも驚くほど動揺していた。嘘をつくような娘《こ》ではない。ずっとそう思い込んできた。その思い込みをあっさりと覆されてしまったのだ。姪《めい》によせていた信頼を裏切られたような口惜しさもあった。
しかし、もしあの夜、祥代の部屋に泊まったのではないとしたら、一体どこに泊まったのだろう……。
一番考えられる可能性は、やはり交際している男がいて、その男のところか、あるいはホテルの類いだろうが、祥代はそのことはきっぱりと否定した。そんな男がいるなら、必ず、自分に打ち明けているはずだというのだ。
蛍子も、いわゆる女の勘で、火呂にはまだそのような深い付き合いをする相手はいないのではないかと思っていた。
恋人という線でないとしたら、他に考えられるのは……。
蛍子の視線がふいに、目の前に広げたゲラのある文字を捕らえた。「売春」という二文字だった。
それは、アメリカの作家の最新作だったのだが、ちょうど今、蛍子がチェックをいれながら読んでいたくだりは、高校生になる自分の娘が売春をしているのではないかと疑う中年男の心理描写がえんえんと続いていた。
「売春」という言葉が何度か出てくる。おそらく、そのせいで、ただ目についただけなのだろうが……。
そう思いながらも、ふだんなら何げなく見過ごしてしまうその二文字に、今の自分の目がなぜか釘付《くぎづ》けになっていることに気が付いて、蛍子は少しうろたえた。
まさか……。
特定の相手ではなく、もし、それが「不特定多数」の相手だとしたら……。
そんな考えがふっと頭をよぎったのである。
だとしたら、火呂はそのことを口が裂けても友人の祥代には打ち明けないだろう。
馬鹿な。
私はなんという馬鹿なことを考えているのだろう。
蛍子は思わず自分の頭を拳で殴りたくなった。たまたま目の前の原稿に何度か使われていた単語が目に付いたとはいえ、その単語からこんなことを連想してしまうとは。
あの娘にかぎって、絶対にそんなことは……。
そう思いかけ、ふとその自信がゆらぐような不安をおぼえた。嘘をつくような娘じゃない。そう信じ込んでいて、ついさきほど、その信頼を見事に裏切られたばかりではないか。私はあの娘の何を知っているというのだろう。どうして、絶対などと言い切れる……?
それに、聞くところによると、俗に言う「売り」をしている女の子たちの多くは、いかにもという外見はしていないという。一見すると、まじめそうであったり、清純そうであって、とても外見からはそんなことをするようには見えないというのだ。
ああ、でも、やっぱり、それはありえない。火呂にかぎって、それだけは……。
疑っては打ち消し、打ち消してはまた疑う。
蛍子が鉛筆を片手にため息をついたり、急にかぶりを振ったり、いらついたように、片手で髪を掻《か》き毟《むし》ったりと、さきほどから無意識に繰り返しているパントマイムのような仕草は、はたから見たら、目の前のゲラと格闘しているようにも見えたかもしれなかった。
「蛍子ちゃん、電話」
蛍子のこんな一人芝居をやめさせたのは、副編集長の曾根の一声だった。
新卒で入ったこの出版社で、入社以来、ずっと「ちゃん」付けで呼ばれてきた。これなどは一種の「セクハラ」なのかもしれないが、蛍子自身はそう感じたことは一度もなかった。
それは、副編集長をはじめとする編集部員との間に、十年近くをかけて培った信頼関係のようなものが成立していたからだろう。三十路《みそじ》をすぎたからといって、急に、「さん」付けで呼ばれたりしたら、自分はもう「ちゃん」付けで呼ばれるほど若くはないんだなんて、かえってひがんでしまったかもしれない。
とはいえ、もし、同僚や上司とそれだけの信頼関係が築きあげられていないような職場で、いつまでたっても「ちゃん」付けで呼ばれていたら、「なめとんのか」と言いたくなるような不快感をおぼえていたかもしれないが……。
電話は沢地逸子からだった。
神田のなじみの古本屋に寄った帰り、今、泉書房の近くの喫茶店にいるのだという。もし、身体があいているようだったら、お茶でも飲まないかというのだ。少し話したいこともあるのだという。
蛍子はすぐに行くと伝えて受話器を置いた。