「わたしのホームページ見てくれた?」
喫茶店で向かいあうやいなや、沢地逸子はすぐにそう言った。
「はい、拝見しました。とても、その……面白かったです」
蛍子は、慎重に言葉を選びながら答えた。
「で、どうかしら、単行本化の件は? ちょっと気が早いかもしれないけれど、神田に用があって泉書房の近くまで来たものだから……」
沢地は蛍子を呼び出したことを弁解するように言った。
「そのことでしたら、今朝、さっそく編集会議にかけてみました————」
その場の感触としては、「沢地逸子」の名前を出しただけで、スンナリ通りそうな様子ではあったが、年配の編集者の中には、インターネットになじみのない人もいたので、沢地のエッセイと掲示板のログファイルをプリントアウトしたものを渡して、明日までに目を通しておいて貰《もら》うことになっていた。
そして、明日、もう一度会議を開いて、この企画が本決まりになったところで、沢地にはメールか電話で知らせるつもりだったと、蛍子は話した。
「もう決まったも同然なのですが、一応……」
そう言うと、沢地はもっと喜ぶかと思ったら、なにやら浮かぬ顔で、「そう」と言っただけだった。蛍子のこの報告を素直に喜べないような、何か屈託したものを胸に抱えているようだった。
どうやら、神田に出てきたついでだと言って、蛍子を呼び出したのは、他にも何か話したいことがあるためらしかった。蛍子自身、昼間、火呂のことで、知名祥代を、「昼食を奢る」という口実で呼び出したばかりだったので、なんとなくピンとくるものがあった。
「あの、他に何か?」
蛍子は自分の方から水を向けてみた。
「これ、わたしの気のせいというか考え過ぎかもしれないんだけれど……」
沢地逸子はそう前置きをして、ようやく、やや重たげに口を開いた。
「中目黒で起こった猟奇殺人のこと、ご存じよね……?」
またその話題か、と蛍子は思った。知名祥代と昼食をともにした軽食喫茶でも、大学生らしき若い男女がその話で盛り上がっていたようだし、編集部でも、やはりその話が話題になっていた。
犯行の手口が残忍で異様、しかも謎《なぞ》が多いということもあって、マスコミもかなり騒いでいるようだった。
「あの犯人……わたしのホームページを見ているんじゃないかしら」
沢地逸子は突然そんなことを言い出した。
「え?」
「掲示板の中に、『真女子』というハンドルの書き込みがあったでしょう? 一人だけ他の人たちの話題を無視したような変な書き込みをする……」
蛍子ははっと思い出した。
「あの真女子というハンドルは、たぶん、上田秋成の……?」
と言いかけると、沢地は頷《うなず》いて、
「『蛇性の婬《いん》』に出てくる女の名前から取ったものでしょうね。前からちょっと気になっていたのよね、彼女のこと。といっても、本当に女かどうかは分からないけれど。もしかすると、ネットオカマかもしれないし……」
ネットオカマというのは、ネット上で、女性を装う男性ユーザーの俗称である。
「彼女——あの事件の起きる前日、妙なことを書いていたでしょう? 『明日、母なる神に生き贄《にえ》を捧《ささ》げる』とか。あれ、読んだときは、悪い冗談くらいにしか思わなかったんだけれど、あの事件が起きて……まさかって思ったのよ」
「あの書き込みをしたのが、犯人だと?」
蛍子は驚いたように聞き返した。
「そこまでは言えないけれど、偶然にしては……ね。それに、あの事件、普通の殺人、例えば、怨恨《えんこん》とかが動機の殺人にしては、奇妙なことが多すぎると言われているでしょう? 意味もなく頭部や四肢を切断したり、心臓を抉《えぐ》り取ったあとで、ゴムボールを押し込めたり……。被害者に強い憎悪を抱いている場合、殺しただけでは飽き足らなくて、遺体を傷つけたりすることがあるというのは、まま聞く話ではあるけれど、それにしても、心臓を抉り取った後で、ゴムボールなんかを代わりに埋めておくなんて、怨恨が動機にしても異常だわ。まともな人間のすることじゃない。だから、精神に異常をきたしている人間の仕業と、マスコミでは決めつけているようだけれど、はたしてそうかしら……」
沢地は考えこむように、ふと黙ったが、すぐに続けた。
「確かにあれだけのことをする犯人がまともとはとても思えないけれど、異常者だから、わけの分からないことをすると考えるのは短絡的すぎると思うのよ。遺体を切断したり、心臓を抉り取ったりしたのは、犯人なりに理由があってしたことじゃないかしら。あれは、犯人にとって、『殺人』というより『儀式』だったのよ」
「儀式……」
蛍子は思わず呟《つぶや》いた。
「そう。儀式よ。神に生き贄を捧げる儀式。あれを普通の殺人———つまり、金目当てや怨恨が動機と言った日常レベルでの殺人だと思えば、犯人の意図は全くつかめないけれど、あれを『生き贄の儀式』として見ると、犯人のした行為はすべて納得がいくのよ。遺体を切り刻むのは、古くから、神に贄を捧げるときの半ば常套《じようとう》的な方法だったし、心臓を抉り取るのも同じ。それに、ネットの情報で知ったんだけれど、被害者の背中の皮の一部がナイフのようなもので剥《は》がされかけていたんですって」
「……」
「まあ、ネット上で乱れ飛ぶ怪情報だから、早いだけが取り柄で、その信憑性《しんぴようせい》については疑わしいけれど、今回の事件に関しては、この情報はかなり正確ではないかと思うのよ。生皮を剥がすというのも、こうした儀式の一つの方法だから……。
それに、あの心臓部に埋め込まれていた黄色いゴムボールも、もともと被害者の部屋にあったものを、犯人が目にとめて、気まぐれで押し込んだって思われているみたいだけれど、そうじゃないわ。あれは、犯人が最初からそのつもりで持参してきたものに違いない。あの黄色いゴムボールというのはね、おそらく、『黄金のりんご』の代用品なのよ」
「黄金のりんごって、ギリシャ神話の……?」
蛍子ははっとした顔で聞いた。
「あのりんごよ。永遠の生命を象徴するという黄金のりんご。エッセイにも書いたように、ギリシャ神話に出てくる黄金のりんごというのは、女神の心臓を象徴するものであると同時に、女神が生き贄に与える『契約の印』でもあるのよ。生き贄に選ばれた人間の現世での命を奪う代わりに、神としての永遠の生命を与えるという契約の……。
だから、被害者の心臓を抉って、代わりに、黄金のりんごに見立てた黄色いボールを埋め込むという犯人の行為は、狂気ゆえの気まぐれではなくて、まさに、儀式だったのよ。生き贄に選んだ被害者に永遠の生命を与えるという……」
「つまり、あの事件は、先生のホームページを見た犯人が、先生のエッセイに触発されて、犯した犯罪ではないかとおっしゃるんですか?」
蛍子がそう聞き返すと、沢地の顔はいよいよ曇った。
「まさかとは思うんだけれど、偶然というには、あまりにも符合が合いすぎるものだから……。それに、ホラービデオやホラー小説などの影響を受けて殺人を犯す人間が現実にいることを考えるとね。もちろん、人が人を殺す動機なんて、犯人自身にさえもよくは分からない部分もあると思うから、たとえ犯人が後になって、『〇〇という作品に影響を受けた』と自白したとしても、それだけが動機ということはありえないとは思うけれど。
でも、こうした危険や恐怖や刺激を売り物にした創作物が、『健全』な人間にはそれほど害を及ぼすことはない、というか、むしろ、ストレス解消やガス抜き的な効果さえあるとしても、まだ脳が未発達の子供や、たとえ大人でも、脳に何らかの欠陥があったり、もともと精神のバランスを大きく欠いていたりする人間には、直接的な悪影響を及ぼすこともないとは言えないと思うし」
「ただ……」
蛍子は慎重に言った。
「前にもありましたよね。猟奇的な殺人が起きたあとで、インターネット上で、犯行を予告するような書き込みがあったと騒がれたことが。それで、犯人はネットワーカーかと思われたんですが、結局、捕まえてみたら、そのネットの書き込みとは全く無関係だったということが分かったんでしたよね。現実には、こういう偶然もありますから……」
「そうね。偶然という線もないわけじゃない」
沢地は大きなため息をついた。
「それで、わたしも迷っているのよ。このことを警察に話した方がいいのか、どうか……。おそらく、警察では、昔ながらの捜査方法をとっていると思うのよ。被害者が自宅で殺されていることや、遺体の損傷がひどいことから、顔見知りによる怨恨が動機の犯行だとね。でも、そうではないかもしれない。犯人の動機が、もし『儀式』だとしたら、手口が残虐きわまるからといって、べつに被害者を恨んだり憎んだりしていたわけではない。それどころか、事件が起きる前日まで面識すらなかったとも考えられるのよ。今は、携帯電話やインターネットの普及で、昨日まで会ったこともなかったような人とも簡単に知り合うことができるからね。犯人は、最初から、『生き贄』を求めるつもりで、被害者に近づいたとも考えられるわ。だとしたら、被害者の交友関係や身辺をいくら血眼になって洗ったところで、犯人に辿《たど》りつくことはありえない。それに……」
沢地は声を潜めるようにして言った。
「もし、あれが個人的な恨みによる犯行ではなく、被害者を無差別に選んでいる『儀式』だったとしたら、また同じような事件が起こる可能性があるのよ」
「でも……警察に話すのは、もう少し様子を見てからの方がいいんじゃないでしょうか」
蛍子はなんと答えてよいのか分からず、ようやくそれだけ言った。沢地の話は、彼女の考えすぎのような気がした。
「様子を見るって、次の殺人が起きるまで待てということ?」
沢地が眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて聞き返した。
「いいえ、そういう意味じゃなくて」
蛍子はぎょっとしながら、慌てて言った。
「もし、あの『真女子』が犯人、というか、何らかの形で事件にかかわっているとしたら、事前に犯行の予告をしたくらいですから、犯行後も何か掲示板に書き込むかもしれません。あのあと、彼女の書き込みはあったんですか」
そう訊《たず》ねると、沢地は首を振った。
「今のところ、何も……」
「もし、彼女が何か事件のことを匂《にお》わすようなことを書き込めば、もはや偶然とは言えないと思うんです。警察には、そのときになって話しても遅くはないと思うのですが」
「ああ、そういうこと。そうね。あなたの言う通りかもしれないわね。彼女が犯人だとしたら、きっと何かまた書き込むはずね。この手の犯罪者は自己顕示欲が強いというから。それまで待てということね……」
沢地逸子は、ようやく納得したように頷いた。