「……あんたか?」
ドアにぐったりと寄りかかり、両足を投げ出したような格好で、右脇腹を押さえたまま、武は、喘《あえ》ぐような声で言った。口をきくのもしんどくなっていた。
右脇腹を押さえた手は、まるで赤い手袋でもしているように、手首まで血に染まっており、Tシャツの腹部からジーンズの膝《ひざ》あたりまで鮮血でぐっしょりと濡れていた。しかも、その血の染みは刻々と広がっている。たちこめる自分の血の匂《にお》いに吐きそうになっていた。
「中目黒の大学生や池袋のフリーター殺した犯人って……」
「そうよ」
女はナイフをかまえたまま、誇らしげに答えた。
「わたしの本当の名前はヒロじゃない。真名子っていうのよ」
「ハンドルだろ、それ……?」
「ただのハンドルじゃないわ。母なる神から戴《いただ》いた名前。巫女《みこ》としての聖名よ」
「なんで……あんなことしたんだ? 殺してバラバラにして心臓えぐって……」
「弟のためよ」
真名子は言った。
「弟?」
「そうよ。すべては弟のため。さっき言ったでしょ。弟のためなら何でもできるって」
「なんで……人殺しが……弟のためになるんだよ……?」
「人殺しじゃないわ。これは儀式よ。母なる神に生き贄を捧《ささ》げる儀式よ。アマミクはわたしに約束してくれた。アマミクが望むものを毎月供え続けたら、わたしの願いを叶《かな》えてくれるって。弟を救《たす》けてくれるって。弟の身体を健康にしてくれるって。他の子供のように、外で飛んだり跳ねたりできるようにしてくれるって……」
「弟って……病気なのか? さっき、ボクシングやってるって……」
「ボクシングをやっているのはヒロの弟よ」
「ヒロって……あんたじゃないのか」
「ヒロはわたしの友達」
友達の名前を騙《かた》っていたということなのか。女の言っていることはどこか錯乱していた。
「わたしの弟は生まれつき心臓が悪いの。片方の心室しか動かないのよ。だから、心臓が必要なのよ。健康で新鮮な心臓が。健康な心臓さえ移植すれば、弟は助かる。普通の子供のように外で遊んだり学校に通うこともできる。でも、誰も心臓をくれない。日本では子供の心臓移植は認められていないから。だから、心臓をちょうだい。生きたままの心臓をちょうだい。あなたの心臓をちょうだい……」
真名子はうわごとのようにそう呟《つぶや》きながら、武のそばにしゃがみこむと、ナイフの刃をTシャツの襟首《えりくび》に突っ込んで、一気に切り裂いた。
武はされるがままになっていた。女をつきとばして逃げたくても、金縛りにあったように身体が動かない。手足の先が冷たく何も感じなくなっていた。
「こわがることはないわ。あなたは死ぬわけじゃないのよ……。永遠に生きるのよ」
真名子は耳元で囁《ささや》くように言った。それは不思議な優しさに満ちた声だった。まるでこれから外科手術を受けようとしている患者を励ます看護婦のようだった。
気のせいか、真名子の身体からは、血の匂いに混じってクレゾールのような匂いがかすかに漂ってきた。
「心臓……取られて……どうやって生きろっていうんだ……?」
「代わりにもっと良いものをあげる。母なる神の黄金の心臓を」
真名子は素早いしぐさで、床の上に投げ出されていた紙袋を取り上げると、逆さに振って中身をばらまいた。紙袋の中からは、B5判のノートパソコン、PHS、電動ノコギリに混じって、テニスボール大の黄色いゴムボールが転がり出た。
それをつかむと、肩で呼吸している少年の目の前に突き出した。
「これを心臓を取ったあとに入れてあげる。そうすれば、永遠に生きられるわ。老いることもなく、病気になることもなく、このままの若く美しい姿で……あなた自身が神になるのよ」
真名子はそんなことを歌うような口調で囁き続けながら、武の上半身を覆っていたTシャツをナイフでずたずたに切り裂いて取り去ると、その眩《まぶ》しいほどに健康的な日に焼けた上半身をさらけ出し、左胸の、ちょうど心臓のあたりに見当をつけて、ナイフの切っ先を突き付けた。
少しだけ皮膚を傷つけると、赤い血玉が浮かび上がった。あれだけ血を流しても、まだ身体の中に血が残っているのが不思議なくらいだった。
「……麻酔なしかよ?」
「前の二人にはビールに混ぜてハルシオンを飲ませたんだけれど。あなた、その前に帰ろうとしたから」
「俺《おれ》にもくれよ……。このまま、切り刻まれたくねえよ」
「……」
真名子はじっと探るような目で、目の前の少年を見つめていたが、
「ちょっと待ってて」
そう言うと、血に濡れたナイフをもったまま、テーブルの方に歩いて行った。
そのとき、床に転がっていたPHSの着信音が鳴った。