エレベーターを一階で降りた新庄美里は、病院の広々としたロビーを横切って、ロビーに付属している喫茶室の方に、踵《かかと》に鉛の入った靴でもはいているような重たげな足取りで向かっていた。
喫茶室では、義弟の神聖二が待っているはずだった。十五分ほど前、担当の医師を連れて病室に戻ってみると、ついさきほどまで義弟が見舞いに来ており、しかも、ロビーの喫茶室で自分を待っていると武から聞かされたのである。
それを知って、美里は少し憂鬱《ゆううつ》な気分になった。どうも、この義弟が昔から苦手だったからだ。会うたびに、得体の知れない劣等感というか圧迫感に悩まされる。
それは、夫と付き合いはじめた頃、「すぐ下の弟だ」といって紹介されたときから、美里の中でずっとくすぶり続けてきた感情だった。
はじめて会ったとき、一目見て、その女にも珍しいような美貌《びぼう》にまず驚かされた。自分の容姿に自信がなかっただけに、美里は、そのとき、この義弟に対して奇妙な敗北感のようなものを感じてしまった。
それだけではなかった。
少し話をするうちに、この義弟が、美貌だけでなく、並々ならぬ才知の持ち主であることにも気づかされ、新たに打ちのめされた。
容姿の方こそあまりぱっとはしなかったが、新庄信人の一人娘として、物心ついた頃から、お花だピアノだ書道だと、女の子としての、およそ考えられ得る限りの教養を身につけさせられてきた。しかも、それはただの「お嬢さん芸」の域を遥かにこえていた。
幼い頃から英国人の家庭教師について英語を習っていたから、ある程度の会話くらいなら流暢《りゆうちよう》な正統派の英語で出来るし、読み書きもできる。また、古典の素養のあった父の手ほどきで、難しい漢書や古文なども、殆《ほとん》ど現代語訳の世話になることなく、すらすらと読み解くこともできた。
「才媛《さいえん》」という名称がけっしてそらぞらしくない程度の才知も教養も自分には備わっていると、密《ひそ》かに自負してもいた。
ところが、そんな自分でさえ、思わずたじろぐほどの才知と教養を、夫の弟は備えていたのである。
二重の意味で敗北感にうちひしがれた。弟だと紹介されたときには、既に結婚を意識しはじめていた頃だったので、「この人がわたしの義弟《おとうと》になるのか」と思うと、よけい憂鬱になった。
それになぜだか分からないが、相手が男であるにもかかわらず、目の前にいるのが「女」であるような錯覚に一瞬|捉《とら》われた。
といって、聖二の言葉遣いや態度が女性的だったというのではなかった。物静かではあったが、見かけは若い男以外の何者でもなかった。
おそらく、男にしておくのが勿体《もつたい》ないようなその容姿に、「女」を連想しただけだったのかもしれなかったが……。
とにかく、義弟というより、まるで才色兼備の手ごわい小姑《こじゆうとめ》の存在を知らされたような気分だった。
出会いのときに感じたそんな苦手意識はいまだに薄れることがない。
美里は少々重い気分で、喫茶室の扉を開けた。
義弟は窓際の席にいた。窓越しに庭の方を眺め、ソファに寄りかかって、物思いに耽《ふけ》っているような顔をしていた。
相変わらず、若い……。
美里は苦々しく思った。
年齢は自分とは一つしか違わないから、既に五十近いはずだが、どう見ても三十半ばくらいにしか見えない。黒のタートルネックのセーターにグレーの背広という、幾分地味めの、特に若作りでもない格好にもかかわらず、贅肉《ぜいにく》の感じられない体型のせいか、中年男というより、いまだに青年のような雰囲気を漂わせている。
自分の「老い」を日ごとにひしひしと感じはじめている美里にとって、義弟のこの異様なまでの若さもまた、少々|羨《うらや》ましいというか妬《ねた》ましさの原因になっていた。
美里が入ってきたことにようやく気づいたように、聖二は、ソファにもたれていた身体を起こして、目礼するような仕草をした。
「……武の背中に変な痣《あざ》のようなものが出たそうですが」
挨拶《あいさつ》もそこそこに、すぐにそう尋ねてきた。
「ええ。今、そのことで、担当の先生に診てもらったんですけれど」
美里がそう言うと、
「で、医師はなんと?」
聖二は興味津々という表情で先を促した。
「先生の診たところでは、治療薬の副作用などが原因とは考えられないそうです。もし、それだとしたら、もっと早くに反応が出ているはずだと……。といって、皮膚病の一種にも見えない。どこかにぶつけてできた一時的な痣ではないとしたら、なぜこんなものができたのか不思議だとおっしゃって」
「やっぱり……」
聖二は独り言のように呟《つぶや》いた。
やっぱり?
その一言が気になったが、美里は先を続けた。
「ただ、自分は皮膚科の専門ではないので、明日にでも、皮膚科の専門医に詳しく調べてもらった方がいいとおっしゃって、そのように手続きをしてくれるそうです。それと、内臓になんらかの疾患がある場合、皮膚に異常が現れることもあるので、そちらの方も念のために検査した方がいいかもしれないと」
「それでは、確かなことは、その検査待ちということになりますね」
「ええ。何か変な病気の前触れでなければいいのですけれど」
美里は憂い顔で言った。それだけが心配だった。とはいうものの、今度はその病気の治療が、武の退院をさらに引き延ばす口実にもなるので、命にかかわるような奇病や難病でさえなければ、必ずしも悪いことではないとも思っていた。
「まあ、それほど心配することはないと思いますがね……」
聖二は義姉《あね》を慰めるように言ったあとで、
「怪我《けが》の方は殆ど完治しているように見えましたが、退院はまだ無理ですか?」と聞いた。
「それが……」
美里は口を濁した。
「先生はもう退院してもかまわないとおっしゃってるんですけれど、せめて今度の選挙が無事に終わるまでは、あの子はここに居た方がいいような気がして……。それで、院長先生にお願いして退院を延ばしてもらっているんです」
「軟禁ってわけですか。でも、それは逆効果かもしれないな」
「逆効果……?」
「傷が治ったのに、無理やり閉じ込めておくのはね。独房にいれたわけではないのだから、抜け出そうと思えば抜け出せますし」
「抜け出すだなんて……」
美里はぎょっとした。
「あいつならやりかねませんよ。さきほど会った感じでは、入院前よりも元気になったみたいで、まるで、ゴリラが檻《おり》から出たがって、鉄柵《てつさく》を力いっぱい揺すっているような状態に見えました。このまま閉じ込めておいたら、鉄柵をひん曲げて逃亡しかねない」
聖二は脅すように言った。
「そんな……」
人の息子をゴリラ扱いにして、と内心少し腹をたてながらも、義弟の言い分にも一理あると渋々認めざるをえなかった。
今の武の様子は聖二の言った通りだった。美里もそのことではらはらしていたのだ。傷が痛むうちは、おとなしくベッドに横になっていてくれたのだが……。
「それで、考えたのですが」
聖二は、ようやく話の本筋に入るように言った。
「ここはすんなり退院させて、そのかわり、長野に寄越《よこ》してくれませんか」
「え……」
「私がしばらく武を預かります。あそこなら、傷に効く温泉もあるし、静養にはもってこいです。あの事件のことをいまだに探っているマスコミ連中も長野の山奥までは追いかけてこない
でしょう」
そうだ。それもある、と美里は思った。
武をこの病院に閉じ込めておきたいと思う理由の一つにこのマスコミ対策もあった。一カ月以上たって、あの事件のほとぼりは冷めたとはいえ、まだしつこく被害者の「お気持ち」とやらを取材したがっているマスコミも存在していた。
武を今ここで野放しにしたら、彼らにつかまって、何をしゃべらされるか知れたものではない。
「それに、受験勉強に専念するには、都会と違って、若者を誘惑するような娯楽施設もないので、これ以上の環境はないでしょう」
聖二はそう続けた。
「でも、その受験勉強にさっぱり身が入らなくて。大学に行く気があるのかないのかさえ……」
美里が困ったようにそう言いかけると、
「それがようやくやる気が出てきたようです。入院中に心境の変化があったみたいで」
「そうなんですか。わたしにはそんなことは何も……」
美里は疑わしそうに聞いた。
「本人がそう言っているのだから間違いないと思います。将来のことまでは何も考えてないようですが、とりあえず、大学に行くことだけは承知しました。受験勉強にも本腰を入れて取り組む気になったようです。彼は知能も高いし、怪我が治れば体力もあるので、その気になって集中さえすれば、今からでも遅くはないと思いますが」
「……でも」
美里は複雑な表情で口ごもった。
武がそんな心境になってくれたことは嬉《うれ》しかったが、毎日のように病院を訪れて世話を焼いている母親の自分ではなく、久しぶりに会った叔父《おじ》に自分の気持ちを打ち明けたらしいことが、なんとなく面白くなかった。
「主人が何というか。相談してみないと……」
そう言いかけると、遮るように義弟は即座に言った。
「兄なら相談の必要はありません。この忙しい時期に武のことでこれ以上煩わせることはありませんよ」
「そうは言っても……」
「実は、今日、見舞いに来たのは、私の考えだけじゃないんです。先日、兄から電話を貰《もら》って、武のことは私にすべて任せると言われました。だから、兄の承認は既に得ているようなものです。事後報告だけで十分です。長野行きのことは武本人も承知していますし、後は、義姉《ねえ》さんが承知してくれればいいだけなんですよ」
畳みこむように言われて、美里は黙りこんでしまった。
義弟の提案は決して悪い話ではない。田舎で静養させるのは、このまま病院に無理やり閉じ込めておくよりは遥《はる》かに良いことかもしれない。反対する理由はなかった。
ただ、美里がすぐに返事ができなかったのは、これほど武のことを心配している自分を蚊帳《かや》の外において、夫と義弟の間だけで話がさっさと決められてしまったことに、ないがしろにされたような憤りを覚えていたからだった。
それに、この病院なら、ちょっと車を飛ばせば、毎日のように息子の顔を見に来ることができるが、長野の山奥となれば、そうそう顔を見に行くこともできない。
それが少し寂しい。
「どうでしょうか。私が預かることで何か不都合でもありますか」
黙りこくっている義姉の様子に少々|焦《じ》れたように、聖二は聞いた。
「あ、いえ、不都合なんて何も」
「それでは承知してくれますね?」
「え、ええ……。わたしは別に……」
「それでしたら、あの痣《あざ》の検査結果に特に問題がないようでしたら、すぐに退院の手続きをしてください。後は私が引き受けますから」
「は……はい。あの子のこと、よろしくお願いします」
美里はついに白旗を掲げて、渋々頭をさげた。
いつもこうだ。最後には、この義弟の思う方向にやんわりと押し切られてしまう。
にこやかだが凄腕《すごうで》のセールスマンに全く買う気のなかった商品を買わされてしまった後のような、情けないような割り切れないような思いを感じながら、美里は昔のことを思い出していた。
あのときもそうだった。
あれは確か、まだ武が幼稚園に通っていた頃で、夏のことだった。
何か用があって上京してきたという義弟が、ふらりと家を訪ねてきて、武の虚弱体質を改善するために水泳でも習わせてみたらどうだと言い出した。
義弟の提案に、「できればそうしたいのだが、あの子はどういうわけか水をこわがり、家のプールにも入ろうとしない。少しずつ水に慣れることから教えないと……」というと、それを黙って聞いていた義弟は何を思ったのか、ちょうどその場で遊んでいた武をつかまえて、衣類を剥《は》いで素っ裸にすると、泣き叫ぶ子を抱いて裏手のプールにまで行き、こともあろうに、母親の目の前で、いきなり、プールに放り込んだのである。
あのときは、一瞬、義弟が気でも違ったのかと腰を抜かすほど仰天したものだが、さらに驚いたのは、あれほど水をこわがってプールに近寄りもしなかった武が、プールに投げ込まれた途端、最初こそ慌てふためいてもがいていたものの、すぐに水に慣れて、犬掻《いぬか》きのような仕草で泳ぎ出したことだった。
それを平然と見ていた義弟は、駆けつけてきた美里の方を振り返って、「もう水に慣れたようですよ」と笑いながら言った。
荒療治は成功したわけだが、それは結果論であって、もしあのとき、武が溺《おぼ》れてでもいたらと思うと、美里は、義弟の優しげな顔に似合わない、この荒っぽいやり口に抗議せずにはいられなかった。
ただ、そのときの聖二の答えは、「あの場合、水への恐怖心に負けて溺れる可能性もないわけではなかったが、武の性格から見て、瞬時にして恐怖を克服して泳ぎ出す可能性の方が高いと見た。少々荒っぽかったかもしれないが、ああいう気性の激しい子供にはあのくらいでちょうどいい。腫《は》れ物に触るようなびくびくしたやり方では目覚ましい成果は得られない。多少リスクを伴ったやり方を思い切って取った方が大きく成長する」というようなものだった。
今から思えば、義弟はあの頃から、既に、一見ひ弱に見える幼い甥《おい》の中に潜んでいた「激しい気性」を見抜いていたようだった。
実際、この荒療治以来、武の水恐怖はウソのようになくなり、スイミングスクールに入れて、本格的に水泳を習わせてみると、あれよあれよという間に上達していった。
そして、その後に習わせた空手や剣道などの効果もあって、武の肉体は、急速に少年らしいものになっていき、それに伴って、それまではあまり目立たなかった性格の「激しさ」も表に出てきたというわけだった。
この人には、親でさえ見抜けなかったものが早くから見えていたらしい……。
そういえば、いつだったか、夫が、「聖二にはどんな子供でもなつかせてしまう不思議な力がある。あれがもし教師になったら、超一流の教師になるかもしれない」と何かの拍子に口にしていたことを思い出した。
事実、あのあと、いきなりプールに投げ込まれるという怖い体験をさせられたにもかかわらず、そのことで武が叔父を嫌ったり怖がったりするようなことはなく、むしろ、前よりもなついたくらいだった。それも今から考えれば、不思議といえば不思議だった。
この人に任せておけば、あのとき、武を変えてくれたように、また大きく変えてくれるかもしれない。
美里は、子育てというジャンルでも、この義弟には敵《かな》わなかったのかと敗北感にも似た苦い思いを噛《か》み締めながらも、そんな微《かす》かな期待も同時に持ちはじめていた。
「それともう一つ……」
義弟がふいに言った。
「義姉さんに承知しておいてほしいことがあるのですが」
「なんでしょうか……?」
「此の際、武に家庭教師を一人つけようと思うのです」
聖二はそんなことを言い出した。