「……家庭教師ですか?」
やや間をおいて、そう答えた新庄美里の表情はなんとなく浮かなかった。
聖二はその顔を見つめ返しながら、この義姉とはじめて会ったときのことを思い出していた。
第一印象は、これといって特徴のないパッとしない女だな、という冷ややかなものだった。
大物政治家の一人娘ということから、我《わ》が儘《まま》一杯に育てられた派手で驕慢《きようまん》な「お嬢様」のイメージを勝手に思い描いていたので、待ち合わせの場所に、兄と一緒に現れた彼女を見て、「え、この女か?」と一瞬目を疑ったくらいだった。
長身の兄と並ぶと、一メートル五十センチそこそこの彼女はまるで大人に連れられた子供のように頼りなく見えた。顔立ちも醜くはないが、作りがちまちまとしていて、華やかさに欠ける。印象に残りにくい顔だった。
仕立ては良いが、色合いもデザインもおとなしめのワンピースを着た彼女は、新庄信人の娘という好条件がなかったら、とても若い男の興味を引くタイプには見えなかった。
兄の妻になる女が自分の予想とは全く違った女だったことに、聖二は、幾分拍子抜けしながらも、どこかで安堵《あんど》していた。
ただ、新庄美里にたいしての第一印象は、そのあと、三人で食事をしながら話をしているうちに、聖二の中で、若干の修正が施されたが……。
さりげない会話の端々から、彼女が、見かけこそあまりパッとしないが、内面には、半端ではない教養を蓄えており、しかも、それをやたらとひけらかさず、控えめに小出しにするような聡明《そうめい》さにも恵まれた女であることが、なんとなく感じ取れたからだった。
この女は悪くないかもしれない……。
聖二は漠然とそう思った。
ごく稀《まれ》にだが、歳をとるごとに、若い頃よりも美しくなるというか、魅力を増す女がいる。
多くの女は若さが失われるにつれて、それに助けられていた表面の美も魅力も、古くなったタイルのようにボロボロとはがれ落ちていき、後には無残な漆喰《しつくい》しか残らないものだが、此の手の女は、歳をとるごとに、内面に蓄えておいた教養なり才能なりが次第に露呈してきて、それが若さというタイルを失った漆喰の壁を装う新たな輝きとなって、若い頃よりも人の目を引き付けるようになるのだ。
ひょっとしたら、新庄美里はこうしたタイプかもしれない。
最初の出会いでそう感じた聖二のこの直感は狂ってはいなかった。
その後、この義姉に会うたびに、彼女が美しくなっているのを感じた。年をとるごとに、その女っぷりを確実にあげていた。
それを一番感じたのは、長男を出産した直後だった。知らせを聞いて、お祝いに駆けつけた聖二の目に、出産直後でろくに化粧もせず、髪もひどい状態だったにもかかわらず、赤ん坊を抱いた義姉の姿はこれまでに見たことがないほど美しく誇らしげに見えた。
子供を生んだ直後の女は美しいといわれるが、必ずしもそうではない。これは、「強い牡《おす》の」子供を生んだ直後の女は美しいと言い直すべきである。
それは、子供を生むのが動物の牝《めす》の本能であるというより、「強い」牡の子供を生むというのが牝の本能だからだ。生存競争に生き残れる強い牡の種を残せた女のみが、牝としての役割を果たせたことで、その本能を完全に満たされて美しく輝けるのである。
新庄美里が結婚したあと、急速に美しくなっていった本当の理由は、彼女が、半端でない教養を内面に備えた女だったからという事以上に、むしろ、その人間としての教養をかなぐり捨てたところにある動物の牝としての本能を夫によって満たされたためだったからといった方がいいかもしれない。
政界では、兄夫婦は、「学生時代に大恋愛の末に結ばれ、今もなお仲|睦《むつ》まじいおしどり夫婦」というイメージで通っているが、実は、これは事実とは違う。
兄が新庄美里を恋愛対象に選んだのは、女性の外見よりも中身を重視するなどという奇特な趣味をもっていたわけではなく(その証拠に兄が今まで付き合った女たちは頭と外見が見事なまでに反比例した白痴美女タイプばかりだった)、彼女が新庄信人の一人娘だったからであり、それ以外の理由などなかった。「新庄信人の娘でさえあれば、どんな女だろうとかまわない」と言っていた兄にとって、美里との恋愛は、いわば「将を射るための」手段にすぎなかったのである。将を射るために射る馬が名馬だろうが駄馬だろうが、兄にとってはどうでもよかったのだ。
ただ、そんな兄にとって、幸運だったのは、その「馬」が一見駄馬にも見える名馬だったことである。兄が新庄美里という女に対して恋愛感情めいたものを多少とも抱いたとしたら、それは、結婚前ではなく、結婚してからだったに違いない。
結婚後数年たって、ようやく、自分が妻にした女の美点に気づいたのである。
言い換えれば、この二人は相性が良かったのだともいえる。体格も性格も正反対だったことが、かえって、鍵《かぎ》と鍵穴がぴたりと合うように噛み合ったというわけだった。
どんな大恋愛で結ばれようと、この相性が悪ければ長続きはしないし、出会いはどうであれ、相性さえ良ければ、結婚生活というのは上手《うま》くいくのである。
だから、女性誌をはじめとする一部のマスコミが作り上げた「政界きってのおしどり夫婦」というイメージも、今となっては、まんざら虚像というわけでもなかった。
「家庭教師はちょっと……」
新庄美里はそう言ったきり、頬《ほお》に片手をあて、思案するような顔で黙ってしまった。
「短期間に効果をあげるためには、なるべくそばについて、アドバイスなり刺激なりを彼に与え続ける存在があった方がいいと思ったのです。武を預かるといっても、私にはそこまでは面倒見切れないので」
聖二がそう言うと、
「ええ、それは分かりますけれど……。ただ、家庭教師なら今までに何人もつけたことがあるんです。どの人も長続きしなくて。中には、ベテランの現役教師や予備校の名物講師とかいう人たちにも、高いお金を払って来てもらったことがあるのですが、一番続いた人で、一カ月がせいぜいでした。だから……」
美里は歯切れの悪い口調で答えた。
「それは、彼が全くやる気がなかったときの話でしょう? 今は、本人の意識そのものがだいぶ変わってきています。相手次第では、頭から拒否することはないと思いますがね」
聖二は義姉の煮え切らない態度に幾分いらだちを覚えながら言った。
聡明な女だったが、どういうわけか、次男のことになると、その強すぎる愛情というか執着が理性を曇らせてしまうのか、そのへんの盲目的な馬鹿母と全く変わらなかった。
「それもそうですね……。あの、どなたかお心あたりでも?」
美里はようやく納得したような顔で聞いた。
「今のところ一人います。でも、彼女の都合も聞いてみないと、引き受けてもらえるかどうかは分かりませんが」
「彼女って……その方、女性なんですか」
美里が思わずというように声を張り上げた。よほど驚いたらしい。
「そうです。二十歳になる現役の女子大生です」
「女子大生!」
美里は今度は悲鳴に近い声をあげた。
「薬学部に通う優秀な学生で、知力の点では全く問題ないと思いますが……?」
「無理です。絶対に無理です。中年の経験豊富な男の先生でさえ音をあげたのに、そんな女子大生だなんて……。ライオンの檻《おり》にウサギを放りこむようなものです。何か事が起きたら大変です。それこそまたスキャンダルになりかねません」
「奴《やつ》には高二のときに『前科』がありますからね、義姉《ねえ》さんの心配もごもっともだとは思いますが」
聖二が薄く笑いながら言うと、美里は笑い事ではないという真顔で、
「あのときは、相手の方がずっと年上で、しかも担任教師という立場上、すべての責任を一人で背負ってくれたおかげで、たいしたスキャンダルにならずに済んだんです。でも、そんな将来のある若い女性にもし何か間違いがあったら、相手の親御さんだって黙ってはいないでしょうし……」
「その心配はないと思いますよ」
「え……」
「もし、万が一、義姉さんが心配されているようなことが起きたとしても、そのことで、相手の親が騒ぎたててスキャンダルになるということだけはないでしょう」
「どうして……どうして、そんなことを言い切れるんです?」
「言い切れますよ。親というのが私なんだから」
「……」
美里は呆然《ぼうぜん》とした顔で聖二を見つめていた。
「その女子大生というのは、私の養女《むすめ》なんです」