十月十七日。土曜日。
神聖二はノックすることもなくその特別病室のドアを開けた。
部屋の中はがらんと片付いていて、ベッドの端には、白のTシャツの上に革ジャンを羽織った武《たける》が人待ち顔で腰掛けていた。足元には、身の回り品だけを詰めたようなボストンバッグが置いてある。
皮膚科や内科の検査を受けた結果、身体の方には何の異常も見られないことがわかり、急遽《きゆうきよ》、退院ということになったのである。
退院といっても自宅には帰らず、このまま、新宿のホテルを引き払った聖二と一緒に長野に行く手筈《てはず》になっていた。
「準備できたか。下にタクシー待たせてあるから」
聖二がせかすように言うと、武は頷《うなず》いて、ベッドから立ち上がりかけた。
「義姉《ねえ》さんは?」
重ねて聞くと、
「先生たちに挨拶《あいさつ》してくるって、下に……」
と武は言った。
「じゃ、行こうか」
聖二はそう言うと、先に部屋を出て行きかけたが、
「叔父《おじ》さん……」と武に呼び止められた。
「母さんから聞いたんだけど、向こうで家庭教師つけるって本当?」
「家庭教師というか……」
「女子大生だって?」
武はあざ笑うような表情で聞いた。
「女子大生のお姉さんに俺《おれ》の家庭教師がつとまるかなぁ」
「自分で言うなよ」
「叔父さんの養女ってことは、俺とはどういう関係になるの?」
「法的には従姉弟《いとこ》ということになるのかな」
「でも、養女ってことは、血はつながってないんだよね」
「いや、そうでもない。彼女の実母はおまえのお父さんの従妹《いとこ》にあたる人だから、血筋の上では、おまえと彼女は再従姉弟《はとこ》ということになる。赤の他人ってわけじゃないよ」
「ハトコか。なんかややこしいね。ようするに遠い親戚《しんせき》ってとこか。で、美人なの?」
「それは自分の目で確かめてみるんだな。今、ロビーで待ってるよ」
「え」
武は驚いたように目を丸くした。
聖二の話では、日美香も同じ新幹線で長野に行くことになっており、朝方、聖二が宿泊していた新宿のホテルで落ち合って、そこのレストランで朝食を一緒にとり、タクシーを拾って、ここまで来たということだった。今もロビーで待っているという。
「さあ、早くしろ」
聖二が促すように言うと、武は、足元にあったボストンバッグを取り上げた。
病室を出て、エレベーターで下のロビーまで降りると、正面玄関の近くに、母と担当医師、世話になった数人の看護婦たちの姿があった。その中に混じって談笑していた若い女が、エレベーターから降りてきた二人にすぐに気づくと、近づいてきた。
淡いパープル系のスーツをすらりと着こなし、肩まである黒髪をスーツと同色のリボンできりりと後ろで結んでいる。清楚《せいそ》で知的な印象の強い女だった。
「武君?」
若い女は笑顔で話しかけてきた。
やや高めのヒールを履いているせいか、女の背丈は、武よりも少し低いだけだった。
叔父の隣で、片手を革ジャンのポケットにつっこみ、片手でボストンバッグをさげていた武は、どぎまぎしたような表情で、頷いた。
「神日美香です。よろしく」
日美香はそう言って、握手でも求めるように右手を差し出してきた。
武は目の前に突然差し出された女の手を無視して、片手を上着のポケットに突っ込んだまま、怒ったような顔で、ぺこんと頭をさげただけだった。
「なに照れてるんだよ。握手くらいしろよ」
聖二がそう言って、甥《おい》の腕を肘でこづいた。武は、渋々、上着のポケットから右手を出し、女の手の先っぽをお義理のように軽く握ると、素早く引っ込めた。
「なんだ。その犬がお手するみたいな握手の仕方は」
聖二は珍しく声をあげて笑った。日美香も苦笑に近い笑みを口元に浮かべていた。
でも、武は笑えなかった。
手を素早く引っ込めたのは、裸の電線に素手で触れたような精神的ショックを受けたせいだった。神日美香の白くしなやかな指先に触れた瞬間……。