窓から見える景色はいつの間にか山また山になっていた。
武は車の後部座席の窓からぼんやりと外を見ていた。
長野駅の周辺は変わってしまったようだが、町中を離れて、山間《やまあい》の道にさしかかるこのあたりの風景は昔とあまり変わっていないような気がした。
もっとも、子供の頃には、最初こそ山だらけの景色が珍しくて、タクシーの窓に鼻を押し当てるようにして外を見ていたが、そのうち、だらだらと同じ風景が続くのに飽きて、すぐに見るのをやめてしまったから、あまりよく覚えてもいないのだが。
「……兄さんから武———の身体にお印と思われる痣《あざ》が出たと電話で聞かされたときは驚きましたよ」
車を運転しながら郁馬が言った。
「お印は日女の生んだ男児にしか出ないと思われてきたし、それも生まれついてのものだということでしたからね。でも、それは日美香さんのときも同じでしたけどね。男児にしか出ないとされていたお印がはじめて女性にも出たって聞かされたときは……」
「それ、どういうこと?」
それまで窓の方を見ていた武が鋭く聞きとがめた。
「それって?」
郁馬がバックミラー越しに後ろの武の方を見た。
「男にしか出ないとされていたお印がはじめて女にも出たって、どういう意味よ?」
武が焦《じ》れたように聞いた。
「あれ。まだ聞いてなかったんですか」
郁馬は驚いたように言った。
「そのことは武にはまだ話してないよ。おいおい話していこうと思ってね」
聖二が口をはさんだ。
「そのことって何?」
武がいよいよ興味をもったように身を乗り出してきた。
「わたしにもあなたと同じような痣があるのよ」
そう言ったのは日美香だった。
「ホントに?」
武は思わずというように、隣に座っていた日美香の方を見て言った。
「やっと口きいてくれたわね」
「……」
「あなたは背中でしょ? わたしは胸のこのあたりに」
日美香はそう言って、自分の右胸のあたりを軽く手で押さえた。
「生まれつき? それとも、俺みたいに途中で出たの?」
武はすぐに聞き返した。一言しゃべるまでの敷居がなんとなく高かったのだが、いったん口をきいてしまえば、聞きたいことが山ほどあった。
口がきけないといっても、別に、若い女性とまともに口もきけないほど純情だったわけではない。悪友たちと渋谷や新宿の繁華街に繰り出しては、通りがかりの女の子たちを片っ端からナンパして遊んだこともある。
中には、モデル並みに奇麗な子もいたし、年上のお姉さん風の女もいた。それでも、平気で声がかけられたし、彼女たちと冗談まじりに話したり、時にはそれ以上の行為に及ぶこともあったが、そんなときも、初対面の女たちに対して緊張してしゃべれなくなるなどということは一度もなかった。
それどころか、ちょっと声をかけただけで、ゴキブリ取りにかかったゴキブリみたいに手軽に引っ掛かってくる女たちには、軽い侮蔑《ぶべつ》感すら抱いていた。
それなのに、なぜか、この今横にいる女だけは、今まで知り合った女たちとは全く勝手が違う。
初対面のときから、目が合っただけで、全身が金縛りにあったような奇妙な緊張感を感じた。気楽に冗談の一つでも言おうと思っても、舌が強《こわ》ばって何も話せない。しかも、ただ緊張するというだけでなく、そのなかに、何か強烈な親和感とでもいうような全く別の感情もある……。
やはり、再従姉弟という微《かす》かだが血の繋《つな》がりのある相手だからだろうか。
しかし、今、日美香にも「お印」があると聞かされて、この「親和感」の正体が分かったような気がした。
自分と同じ神紋をもつ女だったからか……。
「わたしの方は生まれつきよ」
日美香はそう答えた。
彼女ともっと話を続けるために、素早く頭を働かせて、次の話題を見つけようとしていると、
「……でも、お印が出たのが武でよかったですよ。もし、あれが、長男の信貴さんの方に出ていたら、厄介なことになってましたね。それこそ、新庄家と神家とで後継者争奪戦にでもなりかねなかったですから」
という郁馬の声でそれも遮られてしまった。
「もともと神家は『弟』の系統だからね。長男ではなく次男である武にお印が出たというのも、単なる偶然ではないよ」
そう言ったのは聖二だった。
「弟の系統って?」
武は気になって聞き返した。
そういえば、父は神家の長男でありながら、宮司職は継がず、新庄家に婿入りし、家は次男である叔父が継いでいる。
長男信仰の強い新庄家に生まれ育ったせいか、どうして長男でありながら生家を継がなかったのか、前からなんとなく疑問に思っていたことだった。
以前、目にした女性週刊誌などには、新庄家の一人娘だった母と、神家の長男だった父が、跡取り問題という旧家にありがちな高い障壁を乗り越えて結ばれたことを、「ロミオとジュリエット」並みの「愛の力」によるものだと大袈裟《おおげさ》に書き立てられていたが……。
そのことを聖二に聞いてみると、聖二の話では、神家の先祖というのは、六世紀頃、蘇我氏と権力争いをして敗れた豪族、物部守屋の遺児であるということだった。
「モノノベモリヤ……。聞いたことないな」
武がそう呟《つぶや》くと、
「聞いたことないとは情けないな。歴史の教科書にも登場してくる名前だぞ」
聖二が呆《あき》れたように言った。
「日本史の時間はいつも睡眠タイムだったから……」
「夢うつつでもいいから、せめてご先祖様の名前くらいおぼえておけよ」
この物部守屋には二人の男児がいて、「弟君《おとぎみ》」と呼ばれる弟の方が、大和から信州に逃げ落ちて、日の本村の祖になったのだという。
「さっき言った神家の男児にしか出ないというお印も、奇妙なことに、長男には一度も出たことがないんだよ。次男以下の『弟』にしか出ない。たとえ長男でなくても、お印の出た子は生まれながらに後継者という掟《おきて》があるから———」
「あ、そうか。わかった。それじゃ、親父《おやじ》は神家を継がなかったんじゃなくて、継げなかったってことか。お印のある叔父《おじ》さんがいたんだからさ」
「まあ、そういうことだ」
「なんだ。てことはさ、母さんと結婚するとき、両家の板挟みになって凄《すご》い葛藤《かつとう》があったみたいに週刊誌なんかじゃ書かれているけど、実際には、あっさり婿入りできたってことじゃねえかよ。それを何がロミオとジュリエットだよ。何が『愛の力』だ」
武は鼻でせせら笑った。
「今でこそ、家を継ぐのは長男というか長子が当たり前という風潮になっているが、大昔は、跡継ぎは弟や妹の方だったんだよ。末子相続というやつだね」
「へえ、そうなの?」
「ついでに教えてやると、実は、おまえは次男ということになってるが、本当は三男なんだよ。三人兄弟の末っ子にあたるんだ」
聖二は続けて言った。
「え。ウソ? ホントに? 兄貴と俺《おれ》の他にもう一人いたの? そいつ、どうなったの?」
武は驚いたように聞いた。
「死んだよ。生まれてすぐに。尊《みこと》という名前もつけられていた。おまえとは一卵性の双子だったんだよ。二人合わせて、武尊《タケルノミコト》。つまり、ヤマトタケルと言う意味になるはずだった」
「双子……」
武ははじめて明かされた自分の出生の秘密に愕然《がくぜん》としたような顔で言った。
俺は双子の片割れだったのか……。
「双子って、武君も?」
そのとき、これも驚いたような顔で口をはさんだのは日美香だった。
「も?」
武は鋭く聞きとがめた。
「武君もって、どういう意味?」
「あ、いえ。別に……」
日美香はうろたえたように言葉を濁した。
武君も……?
まるで、他にも双子がいるみたいな言い方じゃないか。
「でも、そんな話、うちの誰からも聞いたことないよ」
日美香の失言めいた言い草が気にはなっていたが、それよりも、なぜ、自分が双子の片割れであったことが今まで隠されていたのか、その理由の方がもっと気になる。
「難産だったんだよ。おまえが生まれるとき、なかなか出てこないで、産道をふさぐような形になってしまったらしい。それで、結局、もう一人の方は酸欠状態になってしまって、なんとか生まれてはきたものの、半日足らずの命だった。おまえのせいではないにしても、結果的には、おまえがもう一人の片割れを殺したような形になってしまった。義姉《ねえ》さんがこのことを気にしてね。というのも」
そう言って、聖二は、ヤマトタケルという神話の英雄が、少年期にオオウスという双子の兄を惨殺するエピソードがあることを話してくれた。
「その話、知ってる。あの女が話してくれた」
武が突然思い出したように言った。
「あの女?」
「俺を刺した女だよ。真名子とかいう……」
武は思い出していた。あのとき、あの女は、武の名前がヤマトタケルからきていることを知ると、「ヤマトタケルは兄を殺した。いつか、あなたも、その名前ゆえに、ヤマトタケルと同じ運命を辿《たど》るかも」などと不吉なことを言ったのだ。
そんな馬鹿なことがあるかと思いつつも、まるで巫女《みこ》の予言のような確信ありげな女の言葉がずっと気になっていた。
ひょっとしたら、いつか、俺は兄貴を殺すようなはめになるのではないか……と。
ただ、その兄貴とは、てっきり七歳上の信貴のことだと思っていた。もう一人兄がいたなんて知らなかったからだ。
でも、違った。ある意味で、真名子の「予言」は当たったともいえる。ただし、それは未来のことではなく、過去の出来事として。この世に生まれ出ようとするまさにそのときに、自分は双子の兄を殺していたのだ。その片割れの生命を吸い取るようにして、この世に産声をあげた……。
「双子の兄を殺したなんて言うと聞こえは悪いが、それは言い換えれば、最初の生存競争でおまえは勝ったってことなんだよ」
聖二が言った。
「それだけ強い生命力と運をもって生まれてきたということだ。今まで新庄家のタブーになっていたおまえの出生のことを今ここで打ち明けたのも、おまえはそういう強く輝く星の下に生まれた特殊な人間だということを自覚して貰《もら》いたいからだ。
例の事件のときだって、あれだけ刺されれば、普通の人間だったらまず助からなかっただろう。でも、おまえは死ななかった。それもそういう強い星の下に生まれついたからだ。
そして、なぜ、そんな星の下に生まれたかといえば、それは、おまえには、この世でなすべき重大な使命があるからだ。それを果たすまでは、たとえ、おまえ自身が死を望んだとしても、大いなる意志が絶対にそれを許さないだろう……」