武たちを乗せた車が神家に着いたのは、午後三時半を回った頃だった。
庭の見える日当たりの良い八畳間を与えられ、ボストンバッグに入れてきた着替えを箪笥《たんす》に移していると、すぐに聖二が入ってきて、「これから大《おお》日女《ひるめ》様のもとにご挨拶《あいさつ》に行くから、風呂《ふろ》に入って一汗流し、これに着替えろ」と言って、持ってきた装束のようなものを畳に置いた。
見ると、白衣と浅葱《あさぎ》の袴《はかま》一式の神官装束のようだった。
「こんなの着るの?」
武は目を丸くした。
「大日女様のところに行くのに、そんな薄汚い革ジャンにジーンズという格好ではまずい。帰ってきたら脱いでいいから」
聖二は宥《なだ》めるように言った。
「でも……俺、袴なんて着たことないよ。七五三のときだって洋服だったし。どうやって着るんだ……」
武は戸惑ったように呟いた。
「風呂からあがったら美奈代を寄越《よこ》すから手伝ってもらいなさい」
聖二はそう言って、その場を立ち去りかけたが、からかうような表情で、
「なんなら日美香に手伝ってもらうか」と聞いた。
「いやだ! 叔母《おば》さんでいい」
武は少し赤くなって言い返した。
聖二が出て行ったあと、子供の頃の記憶を頼りに風呂場に行った。
やや広めに作られた風呂場は、所々、修繕したような跡は残っていたが、子供の頃と全く変わっていなかった。
いまだに釜焚《かまた》きの古風な檜造《ひのきづく》りで、シャワーもついていない。楕円形《だえんけい》の風呂|桶《おけ》には、温泉を引いたと思われるまっさらな湯が並々と湛《たた》えられていた。
そこで烏の行水よろしく、ざっと汗だけ流すと、武は、すぐに部屋に戻ってきた。部屋の中には、叔母の美奈代が待っていた。
「まあ、武さん……いえ、武様。ずいぶん逞《たくま》しくなられて」
美奈代は、入ってきた武を見るや、心底仰天したような顔で、白いTシャツ姿の甥《おい》を見上げた。
「前に来られたときは、こんなにお小さくて、女の子みたいだったのに……。まるで別人のよう」
叔母はまだ信じられないという目で、武の頭のてっぺんから足のつま先までじろじろと見回した。
武の方は、叔母を一目みて、えらく老けたなと思っていた。まだ四十そこそこのはずだが、この十年でぐっと老け込んだように見える。髪にも既に白髪がちらほら見える。どう見ても五十歳以上に見えた。とても、あの若々しい叔父の妻には見えない。二人が並んだら、叔母の方が年上に見えるだろう。
その叔母に手伝ってもらって、なんとか神官の衣装に着替えた。
日に焼けた小麦色の肌に純白の上衣と浅葱の袴が清々《すがすが》しく映えている。装束はまさに誂《あつら》えたようにぴったりと身についていた。
「まあ、凜々《りり》しい。よくお似合いですよ。よかったわ。背丈がかなり伸びたと聞いていたんで、袴の裾《すそ》を直しておいて……」
叔母はそう言って、袴姿の甥を惚《ほ》れ惚《ぼ》れとした表情で、また見回した。
「似合うじゃないか」
そのとき、部屋に入ってきた聖二も感嘆したように言った。こちらも同じ装束に着替えていた。
「……そう?」
武は照れたような顔で言った。
大きな鏡が手近にないので、自分の姿を見ることができなかったが、叔父夫婦が揃《そろ》ってお世辞を言っているようにも見えなかった。
「あんなロックスター崩れの格好よりずっといい。いっそ、その格好で一生暮らすか」
叔父は真顔でそんなことを言い出した。
「え?」
「お印が出たからには、日女《ひるめ》の子でなくても、日の本神社の宮司職を継ぐ資格ができたわけだから……」
「叔父《おじ》さんの後を継いでここの神主になれってこと?」
武はぎょっとしたように聞いた。
「おまえが望むならそれもできるよ。日美香みたいにうちに養子にくれば……」
「悪いけど」
武は即座に言い返した。
「その気は全くないよ。政治家も嫌だけど、田舎の神主なんてもっと嫌だ」
「はっきり言うなぁ」
聖二は苦笑した。
「だって、こんな山奥の村のちっぽけな神社の神主なんて面白い? 退屈じゃない? いくら世襲で仕方なく継いだとはいえ、叔父さんもよく我慢してるね」
武は前々から思っていたことをつい口にした。
聞くところによると、叔父は、中学から大学までの青春期を東京で過ごしたらしい。大学を卒業したあと、ここに戻って、前の宮司だった父親が亡くなったあと、その跡を継ぎ、それ以来、たまに用があって上京することはあっても、ほとんどは田舎に引っ込んで暮らしているようだ。
都会暮らしがなつかしくならないのだろうか。
その人となりを見ても、とても、こんな山奥の村の一神主で終わる人には見えないのだが……。
「別に我慢してるわけじゃないよ。自分の意志でここにいるんだ。ここには守るべき大切なものがあるからね」
聖二はそんな答え方をした。
「守るべき大切なもの?」
「見た目は山奥の古ぼけた小社にすぎないかもしれないが、ここが、あの伊勢神宮や諏訪大社などという世界的にも名の通った大社よりも遥《はる》かに重要な社であることが、そのうち、おまえにも分かってくるよ」
「……」
「まあ、そんな顔するな。後を継げといったのは冗談だ。それに、私の跡は郁馬に継がせるとほぼ決まってるから、安心しろ」
「なんだ。冗談かよ。ああびっくりした」
武はほっとしたように言った。
「半分は本気だけどね」
「……」
どうもこの叔父は、冗談を言うときも全く表情が変わらないので、時々、本気なのか冗談なのか区別がつかないことがあった。
「さあ、行くぞ。大日女様がお待ちかねだ」
聖二はそう言って、甥《おい》を促すと、部屋を出た。