十月十八日、日曜日の午後。
喜屋武蛍子は、小金井《こがねい》公園のそばに建つ、十二階ほどありそうな濃いベージュ色の高層マンションを見上げていた。
それは、元「週刊スクープ」の記者、達川正輝《たつかわまさてる》が住んでいたマンションだった。
達川の死について、もう少し詳しいことが知りたいと思い、日の本寺の宿帳に書かれていた住所を頼りに訪ねてきたのである。
エントランスのガラス扉を押して入ってみると、幸い、オートロック式ではなかった。ロビーは薄暗く、管理人室の小窓も閉まっていて人の気配が感じられない。
ずらりと並んだ郵便受けを当たってみると、達川が住んでいたらしい903号室にはネームプレイトがなく、明らかに空き室であることを示していた。
前に伊達浩一から聞いた話では、達川には妻子がいたが、転落事件が起きる前に離婚したということだった。ということは、達川は、ここで一人暮らしだったはずであり、その後の始末などは一体誰がしたのだろうと気になった。
とりあえず、管理人に聞いてみようと思ったのだが、あいにく管理人は留守のようだった。
見たところ、分譲マンションのようだから、近所同士の付き合いも多少はあったに違いない。九階の住人に当たれば何か分かるかもしれないと思い、エレベーターで九階まで行った。
九階のフロアで降り、903号室の前まで行ってみると、やはり、ドアに表札は出ておらず、空き室のようだった。
隣の902号室の住人に聞いてみようと思い、インターホンを押してみた。
すぐに女性の声で応答があった。隣の達川さんのことで聞きたいことがあると言うと、しばらくして、チェーン錠をかけたままドアが開いた。
出てきたのは、口元に大きな黒子《ほくろ》のある、三十年配の主婦らしき女性だった。
口元に黒子がある人は俗におしゃべりだと言われている。この俗説が当たっていればいいがと思いながら、蛍子は、自分は903号室に住んでいた達川さんの古い友人で、久しぶりに訪ねてきたのだが、引っ越したようで困っている。どこに行ったか知らないかと聞くと、主婦は眉をひそめ、小声でささやくように、
「あら、ご存じなかったんですか。達川さん、お亡くなりになったんですよ」と言った。
口をアヒルのように突き出して、しゃべりたくてうずうずしているような顔付きから見て、黒子に関する俗説はけっこう当たっているかもと思いながら、
「え。それはいつのことですか」とさも驚いたように聞くと、
「六月頃……それも、あなた、自殺だったんですよ……。夜、ベランダから下に飛び降りて」と相手は答えた。
「自殺……」
達川の変死は結局、「自殺」ということで片付けられたのだろうか。伊達の話では、あくまでも変死ということで、事故とも他殺とも断定はできない状況だったようだということだったが……。
そういうつもりで思わず呟いたのだが、主婦は何か勘違いしたらしく、達川がそれまで勤めていた出版社をやめたあと、再就職もせずに、ぶらぶらしていたらしいこと。それが原因で離婚。妻は五歳になる男の子を連れて実家に戻ってしまったことなどを話してくれた。
「……その後も、仕事もせずに、朝から酒びたりみたいな荒れた生活してたみたいで、どうも、それが原因らしくて……」
遺書などはなかったのだが、居間のテーブルにはウイスキーボトルが一本飲み干されたような状態で転がっていたことや遺体からかなりの量のアルコールが検出されたことなどから、泥酔したあげくの衝動的なものだったのではないかと主婦は言った。
「……達川さんは一人暮らしだったようですが、ここの後始末などは、一体どなたがされたんですか?」
そう聞くと、主婦は、それは別れた妻だと答えた。
北海道出身だという達川には、既に両親も兄弟もなく、遠い親戚《しんせき》にあたる人物が小樽《おたる》にいるだけだったそうで、遺体の引き取りなども、そのことで少し揉《も》めたのだという。
その遠縁にあたる人物が遺体の引き取りを拒否したために、あやうく無縁仏になりそうになったところを、見るに見かねた別れた妻が引き取ったということらしかった。
遺品の整理やマンションの片付け等も、すべてその元妻がやったのだという。
「正式に離婚していたんだから、三恵子さんにはそんな義務はなかったんですけどね、別れたといっても、子供にとってはお父さんにあたる人だし、知らんぷりもできなかったんでしょうねえ……」
主婦はそう言った。「三恵子」というのが達川の元妻の名前であるらしい。
「こんなこといったらなんですけど、正直いって、うちも迷惑しているんですよ。自殺するならするで、どっかよそに行ってやってちょうだいって感じだわ。富士の樹海とか東尋坊とか、手頃なところはいくらでもあるでしょうに。下通るたびに気持ち悪くてしょうがないんですよ。いまだに花とか置いてあるし。ほんとは、引っ越したいくらいなんだけれど、ローンもまだあるし、こんな自殺者を出したマンションなんて、売りに出しても売れるわけないしね。ほんとにはた迷惑もいいとこですよ。死んだ人を悪くはいいたくないけれど、生きてたときからそうだったですよ、達川さんて。ゴミは決められた日に出さないし、夜中でも大きな音でステレオ鳴らすし……」
主婦の口をついて、まさに死者を鞭《むち》うつような言葉が滔々《とうとう》と続いた。
「あの、それで、別れた奥さんは今どちらにお住まいかご存じありませんか?」
蛍子は主婦の愚痴を遮るようにして尋ねた。
「あ。それなら、確か、実家が横須賀にあって和菓子屋をやっているとか……」
主婦はそう言ったかと思うと、いったん、中にひっこんで、すぐに出てきた。
手に葉書のようなものをもっていた。
「実家の方に帰られたあとに、便りをもらったことがあったんですよ。うちの下の子とあそこの坊やが同い年で、幼稚園なんかも一緒だったもんで……」
主婦は葉書の裏を見ながら言った。蛍子はその葉書を主婦から借りると、差出人の住所を手帳に写し取った。
差出人の名前は、平岡三恵子となっていた。