「え……」
日美香は呆然《ぼうぜん》としたように養父の顔を見つめた。
「神迎えの神事」の日女の役とは、大神の霊をおろされた三人衆を神社内の機織り小屋と呼ばれる小屋で待ち受けて、ここで「神の衣」を表す蓑《みの》と笠《かさ》、さらに一つ目の蛇面を渡し、村の各家を回り終えた若者たちを再び小屋に招いて酒でもてなすという、いわば、三人衆の世話係のようなものである。
ただ、それは表向きの話であって、実際に日女がやることは……。
そのことを日美香は既に知っていた。二十年前、実母がこの神事の日女役を「何も知らずに」引き受けたからこそ、自分が今こうして生きているのだということも。
「……最初からそれが目的で、わたしをここに?」
日美香はようやくそれだけ聞いた。
受験勉強とか家庭教師とかは口実にすぎないと、ここに来る前から、聖二自身の口から聞いていたから、それは解っていたつもりだったが、まさか、養父の真意がこんなところにあったとは……。
「隠していたわけではないのですが……」
聖二は言った。
「率直にいうと、武にお印と思われる痣《あざ》が出たと知ったときから、このことは考えていました。ただ、上京している間は、私も、今ひとつ決断がつかなかったのです。家伝にある『二匹の双頭の蛇』というのが、武とあなたのことではないかと思いながらも確信がもてなかった。『双頭』が『双子』を意味するならば、武の方にはこの要素があっても、あなたの方には、それが欠けていたからです。それに、あなたはあの神事の隠された部分についても既に知っていたから、日女役をいきなりお願いしても、拒否されるだけだろうとも思いましたし」
「……」
「でも、こちらに戻ってきて、あなたも双子の片割れであったことを知ったときに、私の決心はかたまりました。やはり、『二匹の双頭の蛇』とは、あなたと武のことだと確信できたからです。
家伝書の序文にある、『二匹の双頭の蛇が現れ、これが交わるとき、大いなる螺旋《らせん》の力が起こり、混沌《こんとん》の気が動く……』というくだりは、まさに、同じ神紋をもつ双子の片割れの男女が生まれ、この二人が交わったとき、大いなる螺旋の力が生じ、この世が大きく動く。すなわち、大神がこの世に再び出現すると私は解釈したのです……」
聖二は話し続けた。
「この村では、大神とは、物部氏の祖神《おやがみ》であり、半人半蛇の姿をした蛇神だと伝えられていますが、実をいうと、私個人は、大神の真の姿をそのようにとらえてはいません。大神の真の姿とは、おそらく、巨大なエネルギーをもつ一種の生命体ではないかと考えています。螺旋の形状をもつ生命体です。この世のありとあらゆる生命や運動を司《つかさど》る螺旋の……。
ただ、これはきわめて抽象的な概念なので、この生命体の存在に気づいたごく僅《わず》かな人たちは、これを大衆レベルでも理解できるように、ある『見立て』を使って、後世に伝えようとしたのではないかと思われるのです。それに使われたのが、『蛇』という生き物です。原始から我々人類の身近にいて、よく目にする生き物。とぐろを巻く特徴的な姿が、この螺旋状の生命体の概念を視覚的に伝えるには格好のものだったのではないか。
だからこそ、文明が起こる当初から、世界中の各地で、『蛇』とりわけ、『とぐろを巻く蛇』の姿が神と崇《あが》められてきたのではないかと思うのです。
大神祭において、大神の御霊《みたま》をおろすということは、単に物部の祖神の霊をおろすという意味ではないのです。もっとも、日の本寺の住職や村長、村の人々の多くはそう考えているようですが。私にとっては少し違う。この大いなる螺旋生命体が依《よ》り代《しろ》に選ばれた人間に憑依《ひようい》して、その人間に超人的な力を与えるということなのです。
物部氏の祖神といわれるニギハヤヒノミコトという神も、昔は、単なる一部族の首長にすぎなかったのが、この螺旋生命体に憑依されたために、その精神も肉体も並の人間を遥《はる》かに越えた超人となり、その超人性ゆえに死後も神として祀《まつ》られたのです。あの半人半蛇の大神の姿とは、まさにこの螺旋生命体と合体した人間の姿を象徴的に表したものなのです。
家伝書を注意深く隅から隅まで読めば、このことがきわめて暗示的に記されているのですよ。あなたももう少し学習を続ければ、そのうち、それが解ってくるでしょう……」
「今度の大神祭で、武に大神の霊をおろすということは、その、ら……螺旋生命体が武に憑依して、彼が超人のようになるということなのですか」
日美香は信じられないという顔で聞いた。
もし、これが目の前の養父の口から出たものでなければ、誇大妄想狂のたわごとだと思ったかもしれない。
「おそらくそうなります。私の解釈が正しければ。それを実現する今年の祭りこそが、我々が大神と呼んでいるモノをこの世に復活させる真の祭りとなるはずです。
これまでの祭りは、この真の祭りを成就するための長い準備段階であり予行練習のようなものだったのです。とはいえ、このことを知っている者は、この村にさえも多くはいませんが……。
しかし、大神の御霊を武におろしただけでは、家伝書に予言された螺旋の力は起こらない。それだけではまだ不十分なのです。『天を支配する陽の蛇』と『地を支配する陰の蛇』とが交わることで、天地陰陽の結合がなされてこそ、森羅万象に自在に存在できる絶対神たる大神を復活させる祭りが完結するのです。
それには、どうしてもあなたの力が必要なのです。『地を支配する陰の蛇』たるあなたの存在と力が。この祭りで、あなたが武と交わらなければ、大神の復活儀式は不完全なもので終わってしまうでしょう。彼にはまだ『天を支配する陽』の力、いわば半分の力しか備わっていないことになるからです……」
「で、でも、わたしと武は———」
日美香はつい声を張り上げた。
「父親を同じくする異母|姉弟《きようだい》だというんですか」
「そうです。だから、いくら儀式とはいえ、そんな交わるなんてことは……許されるはずがありません」
「何が許さないのです?」
「何がって……」
日美香は返答につまった。
「世間の常識ですか。それとも、法律? モラル? 何が許さないと言うのですか」
「……そのすべてです」
日美香は渋々そう答えた。
「いわゆる常識も法律もモラルも、それなりに必要だとは思っています。多くの人間が集まって互いに快適な社会生活を営むためにはね。規範を作る必要がある。こうして必要があって作られたものを、意味もなくいたずらに破ったり破壊したりする愚か者を私は軽蔑《けいべつ》しています。
しかし、だからといって、しょせんは人間が作ったものだ。こうした法律やモラルの中には、ある時代、ある社会構造にしか有効でないものもある。時代が変わり社会構造が変化して、とっくに形骸化《けいがいか》しているのに、愚かしくも、いまだに守ることを義務づけられているものもある。どんな場合にも、何がなんでも厳守しなければならないというほど価値のあるものではない。あなたは、こんなものを気にすることはないし、縛られる必要もないんですよ」
「……」
「ただ、法律やモラルがどうこうというのではなくて、あなた自身が生理的にどうしても武を受け入れることができないというのであれば、これは、しかたがありません。私としても、これ以上の無理強いはできません。あくまでも、あなたの意志を尊重したいからです。日登美の二の舞いは二度としたくない……」
聖二はやや悲しげな表情になって言った。
「あのときは、ああするのが、妹[#「妹」に傍点]にとって一番良いことだと思ったのですが、結局、妹[#「妹」に傍点]をあんな形で死なせる羽目になってしまった。若い頃はそうでもなかったのですが、今となっては、妹の意志や感情を無視して事をなしとげようとした私のやり方が強引すぎたのではないかと、あのときのことは後悔しているのです。だから、あなたには日登美と同じ道は歩かせたくはない……」
「少し時間をください。考える時間を」
日美香はそれだけ言った。
「そうですね。すぐに返答しろという方が無理なことは十分承知しています。でも、その時間があまりないのです。大神祭まで、後一週間足らずしかありません。遅くとも、明日あさってくらいまでには、神迎えの神事の日女役も決めないといけない。もし、あなたがどうしてもいやだというのであれば、誰か他の日女をたてるしかない」
「それでは、せめて今夜一晩だけ考えさせてください。明日にはお返事します」
日美香はそう答えた。
聖二が「解った」というように大きく頷《うなず》いたので、日美香は立ち上がり、部屋を出ようとした。
そのとき、聖二に呼び止められた。
「あ……あともう一つ。確かめておきたいことがあります」
聖二は言った。
「なんでしょうか?」
「少々|不躾《ぶしつけ》なことを聞くようですが」
聖二はやや言いにくそうに言った。
「あなたは……以前、新田裕介という男性と付き合っていたと言ってましたね」
「はい」
「そのとき……その男性と一度でも肉体関係はありましたか?」