十月二十六日、水曜日。午後十時すぎ。
会社から帰宅した喜屋武蛍子は、マンションの玄関でパンプスを脱ぎながら、「ただいま……」と奥に声をかけた。
ガラス戸越しに明かりが漏れているし、狭い三和土《たたき》には甥《おい》の汚れたスニーカーが脱ぎ捨ててある。豪は帰っているようだった。
「……断った?!」
ガラス戸の少し開いたリビングの方からそんな声が聞こえてきた。
豪の声だった。
一瞬、友達でも来ているのかと思ったが、玄関には、それらしき靴はない。
電話で誰かと話してるのだろう。
蛍子はそう思いながら、リビングに入っていった。案の定、豪は電話機の前にいた。前かがみになって、受話器を握りしめている。
「断ったって、どういうことだよ!」
ちらと蛍子の方を見ただけで、受話器に向かってどなるように言った。誰と話しているのかは分からないが、やや興奮しているように見えた。
テレビがつけっ放しになっていた。
報道番組らしきものをやっている。
「……断ったって……うそだろ。話もきかずに断ったのかよ。もしもし? 姉ちゃん? もしもし!」
受話器に向かってどなっていたが、「畜生、勝手に切りやがって」といまいましげに呟《つぶや》くと、豪は叩《たた》きつけるように受話器を置いた。
どうやら、電話の相手は姉の火呂のようだった。
「……話もきかずに断るって、どういうことだよ……」
豪はまだ興奮がさめないという顔でぶつぶつ言っている。
「火呂から?」
そう聞くと、ようやく叔母《おば》の存在に気づいたように頷《うなず》いて、
「ビッグチャンスの話、断ったんだってよ。信じられる? これって、宝の山目の前にして何も取らずに引き返すようなものだぜ」
といきなり言った。
「ビッグチャンス? 何の話?」
蛍子がめんくらったように聞き返すと、
「歌手にならないかって話。あの宝生《ほうしよう》から、昨日、電話があったんだって。姉ちゃんをソロ歌手としてプロデュースしたいって。それで、事務所の人も交えて、一度ゆっくり話がしたいと言ってきたのを、自分は将来は沖縄に帰って小学校の教師になるつもりだから、歌手になる気は全くないって、その場で断ったんだと」
豪はまるで自分が断られたような憤懣《ふんまん》やる方ないという顔で言った。
「ホウショウ……」
蛍子は思わず呟いた。
ああ、宝生|輝比古《かがひこ》とかいう、若手の人気音楽プロデューサーかと思い出した。
何カ月か前に、豪が高校のバンド仲間と、プロへの登竜門といわれるオーディションのようなものに参加したことがあった。
予選はかろうじて通ったものの、本選を目前にしてボーカルをやっていた仲間が受験勉強を理由に脱落してしまい、そのピンチヒッターとして姉の火呂をボーカル役にかつぎ出したのだ。
結局、優勝はおろか入賞すらできなかったようだが、そのとき審査員の一人だった宝生は火呂の歌唱力を高く買っていたようで、彼の口利きで、審査員特別賞というのをもらったと聞いていた。
「やっぱり俺《おれ》の思った通りだった。宝生はあのとき姉ちゃんの才能を見ぬいてたんだ。さすがだよ。やっぱ、あいつには見る目がある。他の審査委員なんて肩書ばっかで屑《くず》同然だったけど、あいつだけは違うと思ってた。それをアッサリ断るなんて。どうかしてるぞ……」
豪はそう呟いたかと思うと、
「俺、ちょっと行ってくる」
ソファに脱ぎ捨ててあったブルゾンをつかみ、リビングを出ていこうとした。
「待ちなさい。どこへ行くのよ」
蛍子は思わず甥の腕をつかんで聞いた。
「姉ちゃんとこだよ。電話じゃ話にならない。どうせまたかけたって切られちまうだろうし。これから行って直談判《じかだんぱん》してやる。たとえこの話断るにしても、一度会って話聞いてからにしろって言ってやる」
「やめなさい」
蛍子は、やや逆上ぎみの甥の頭を覚ますように一喝した。
「なんで止めるんだよ?」
「今何時だと思ってるの。十時すぎよ。火呂のマンションに着く頃には十一時すぎてるわ。いくら姉弟《きようだい》でも、一人暮らしの女の子の部屋訪ねる時間じゃないでしょ」
そう諭すと、豪は、返答に困ったような顔でおし黙った。姉弟といっても、血がつながっていないことをあらためて思い出したようでもあった。
「それに、たとえ直談判しても無駄よ。あの子の頑固な性格はあんたが一番よく知ってるんじゃない。一度決めたことをすぐにひるがえすような子じゃないことは」
「……」
つかんでいた甥の腕から力が抜けたような感触があった。
「しかも、あの子が沖縄に帰って小学校の教師をやりたいというのも、あの子の夢というより、我が子同然に育ててくれた亡くなった姉さんの遺志を継ぎたいからなのよ。だから、ちょっとやそっとの説得で、火呂が心がわりするとは思えないわ」
「……」
「あの子の好きなようにさせてあげなさい」
「……わかったよ」
豪はふてくされたように言うと、蛍子の手を振り払い、ソファに戻ってきた。
「だけど、悔しいんだよ! せっかくこんな美味《おい》しい話が向こうから舞い込んできたというのに、何もしないで、みすみすチャンス逃すなんて」
手にしていたブルゾンを投げつけ、ソファにドカリと座り込むと、まだあきらめきれないというように言った。
「あんたが悔しがってどうするのよ。それに、美味しい話かどうかなんて分からないわよ。たとえ歌手としてデビューできたとしても、その先、成功する保証なんてどこにもないんだから」
「保証はある。宝生がプロデュースするってことは、もうそれだけでメジャーになれるってことなんだよ。あいつが育てたアーチストで今までメジャーになって成功してないやつなんていないんだから」
「今まではそうだったとしても、これからもそうとは限らないでしょ。それに、火呂は成功そのものを望んでないかもしれないわ。歌とお金を結び付けることを誰よりもいやがっていたから。火呂の将来を思えば、あの子の選択の方が堅実だと思うけどね、わたしは」
「女ってすぐそうなんだ。石橋をこわすほどぶっ叩《たた》いておいて、ほら、やっぱり渡れないとかぬかしやがる。何でも無難な方へ現実的な方へ、二言目には自分の足元を見ろって。足元ばかり見てたって前には進めないじゃないか。チャンスったって、せいぜい、落ちてる小銭を拾うくらいのもんだろ」
「あんたみたいにポカンと口あけて空ばかり見て歩いていたら、そのうち、蓋《ふた》の取れたマンホールに落ち込むのが関の山だわ。宝の山にぶつかる前に」
蛍子はそう言い捨てて、まだぶつくさ独り言をいっている甥を残してリビングを出ると、自分の部屋に行った。
スーツを脱ぎ、くつろげる部屋着に着替えてリビングに戻ってきた頃には、豪も少しは落ち着いたようだった。ソファの上にあぐらをかき、リモコン片手に、世にもつまらなそうな顔でテレビを見ていたが、ふいに何か思い出したような顔つきで、
「……あ、そうだ。叔母さん、最近、見合い話とかない?」
テーブルの上にあった夕刊を手に取って眺めていた蛍子に聞いた。
「見合い話? ないわよ、そんなもの」
「ないの? ほんとに? ぜんぜん?」
「ぜんぜん」
「叔母さんって……それほど不細工でもないのに、なんでそんなに縁遠いのかなぁ。今付き合ってる男とかもいないんだろ? 男を寄せ付けない負のオーラでも出しまくってるんじゃないのか」
豪は不思議そうに聞いた。嫌みならともかく、全く悪気のない口調なのが、よけい蛍子の癇《かん》に障った。女も独身のまま三十路《みそじ》を過ぎると、この手の話題にはやや過剰に反応するようになる。
「きっとわたしは防虫剤を香水と間違えてつけてるのかもね」
むかつきながらそう言い返すと、豪はひっくりかえって笑った。
「ぎゃはは。それ、いい。自分で言ってりゃ世話ないけど」
「……」
この糞《くそ》ガキと思いながら、横目でにらみつけていると、
「でもさ、そのうち、きっと春が来るぜ、叔母さんにも。待てば海路のぼたもちとか言うだろ」
「……」
「今ごろ、どこかの金持ちの御曹司《おんぞうし》か何かに密《ひそ》かに目をつけられてたりしてサ。だから、こっそり興信所雇って、叔母さんの身辺洗ってるんだよ、きっと」
豪は笑いながらそんなことを言い出した。
「興信所?」
蛍子は広げた夕刊に戻しかけた目をあげて聞き返した。
「うん。叔母さんのこと、興信所のやつが調べてたんだって」
「誰がそんなこと……」
「向かいの桜井さんちのおばさん。今日、学校から帰ってきたとき、廊下でばったり会ってさ。そんなこと言ってたよ。興信所と名乗る若い男が叔母さんのこと、あれこれ聞いていったって。あのババァ、つかまったら最後、しゃべり疲れるまで離してくれないスッポンだから」
「いつのこと?」
「だから今日」
「そうじゃなくて、その興信所とかがわたしのことを調べていたって、いつのことなの?」
「十日くらい前とか……縁談がらみの調査だって言ってたらしいよ」
興信所を名乗る若い男……。
縁談がらみ?
「今頃、もしかしたら、依頼主の御曹司の家では家族会議の真っ最中かもしれないぜ。興信所の調査書をめぐって、この女じゃだめだと親が反対したら、当の御曹司は、僕はこの人じゃなきゃいやだ、一緒にさせてくれなきゃ死ぬーとか反抗してたりしてさ」
「テレビドラマの見過ぎよ」
蛍子は苦笑しながらも、なぜか胸の奥がざわめくのを感じた。
本当に縁談がらみの調査なのだろうか。
たとえ、そうだったとしても、陰でこそこそ自分のことを調べられるというのは、あまり気持ちの良いものではない……。
「お、いけね。テレビドラマといえば、卯月マリナ主演のドラマ、今日だっけ」
豪はそう呟《つぶや》くと、手にしたリモコンで、テレビのチャンネルを変えようとした。
「ちょっと待って!」
蛍子は思わず叫ぶように言った。
何げなく見ていたテレビ画面に、三、四歳くらいの幼女の顔写真が大写しになっていた。
オカッパ頭で、右の頬《ほお》にかなり目立つ黒子《ほくろ》がある愛くるしい顔……。
興信所を名乗る若い男が自分のことを調べていたという気になる出来事も、その顔写真を見たとたん、蛍子の頭から吹っ飛んでしまった。
この子、似ている。
テレビ画面一杯に映っている笑顔の幼女の顔は、あの日の本村でかいま見た幼女の顔によく似ていた。
神郁馬を探して迷いこんでしまった神社の裏手にある林で、日女らしき若い女と毬《まり》遊びをしていたあの幼女に……。
あのときは、白衣に紫の袴《はかま》という格好から幼い日女なのかと思っていたが。
まさか……。
顔写真の下には、近藤さつきちゃん(当時三歳)とある。
「これ何?」
蛍子は画面を凝視したまま言った。
「え。何って」
「この番組よ」
「知らんよ。さっき、たまたまテレビつけたらやってたんだもん。『消えた子供たち』とかいうタイトルの特集番組みたいだよ。見始めたら、姉ちゃんから電話かかってきて———」
蛍子は手元にあった夕刊を見た。
テレビ番組欄を見ると、豪の言う通り、二時間ものの報道特集番組のようで、ここ十数年の間に忽然《こつぜん》と姿を消し、いまだにその行方が分からない少年少女たちの事件ファイルばかりを集めて公開し、視聴者に目撃情報等の提供を呼びかける趣旨の、いわゆる「公開捜査」番組のようだった。
あの黒子の幼女も、そんな「消えた子供たち」の一人だった。
「……近藤さつきちゃん、当時三歳は、今年の四月二十五日、埼玉県K市のショッピングセンターに一緒に買い物に来ていたお母さんがちょっと目を離したすきに、センターの駐車場に停めておいた車の中からいなくなったもので、さつきちゃんがシートベルトを自分でははずせなかったという状況から考えて、何者かに連れ去られた可能性があり、近くにサングラスをかけた若い男が乗った不審な車両があったことから……」
蛍子は、今年の四月に起きたという幼女|失踪《しつそう》の概要を説明する中年のベテランキャスターの声を茫然《ぼうぜん》と聞いていた。