窓の向こうから、パキッパキッとリズミカルな音が聞こえてくる。
台所の流しで洗い物をしていた神美奈代は、つと顔をあげると、その音が聞こえてくる方向に目をやった。
北向きの、開け放した台所の窓から、物置小屋の前で、斧《おの》を手に薪割《まきわ》りをしている武の姿が見える。
彼がこの家に来て二週間近くがたとうとしていた。
いつのまにか、昼食後は、こうして薪割りに時間を費やすのが日課になってしまったようだ。
十月も末になり、肌をさす風の冷たさに冬の到来を早くも感じる頃になると、雪の降り積もる時季に備えて、割る薪の量もぐっと増える。
いつもなら、その日の風呂焚《ふろた》きの分くらいは美奈代がやり、手が足りなくなると、村の若い衆に頼んで手伝ってもらうのだが、武が来てからは、彼一人でこなしている。
最初は、お印が出た子にそんなことはさせられないと断ったのだが、都会育ちで薪割りなどやったことがなく、よほど珍しかったのか、「運動がてらにやらせてくれ」と食い下がられ、仕方なく夫に相談すると、「どうせすぐに飽きるだろうから、好きにさせろ」と言う返事だったので、まかせたところ、それから毎日、昼食が済むと、小屋の前に現れては、一時間でも二時間でも気の済むまで、黙々と続けている。
食器を洗うかたわら、窓からそれとなく見ていると、最初は、斧を振り下ろすタイミングがつかめず、力あまって、薪を弾きとばしたりして苦労していたようだが、東京ではボクシングの真似事もしていたようで、もともと運動神経は良いせいか、すぐにコツを覚えて、今ではしっかりと腰の入った格好でやっている。
上は真夏に着るような半袖《はんそで》のTシャツ一枚だった。それでも、若さゆえか寒くはないらしく、半時間も薪割りに専念していると、額に浮かんだ汗を手の甲で拭《ぬぐ》うような仕草を見せ始めた。
そんな甥《おい》の姿を台所の窓越しに眺めるのが、美奈代にとっては、密かな楽しみにさえなっていた。雨の日など、洗い物をしていて、窓の外に武の姿が見えないと、がっかりすることもあった。
あの少年を見ていると、なぜか、胸の奥にたまりにたまったモヤモヤとした黒いものがすーと晴れるような良い気分になる。先日もあまり気分がいいので、つい鼻歌を口ずさんでいたら、一緒に台所仕事をしていた義弟《おとうと》の嫁に、「お義姉《ねえ》さんでも歌なんて歌うことあるんですね」と驚かれたくらいだった。
わたしだって歌くらい歌う。数年前に嫁いできた義妹《いもうと》には、さぞかし陰気な兄嫁だと思われているのだろうと、美奈代は内心で苦笑した。
若い頃は、毎日のように大声で当時の流行歌などを歌っていた。今は村長をしている兄に「うるさい」とどなられるほどに……。
それがいつのまにか歌わなくなった。この家に嫁いで来てから、知らず知らずのうちに、腹の底から笑ったり歌ったりする喜びを忘れてしまった……。
でも、あの少年がこの家に来て、なぜかは分からないが、歌うことも笑うことも忘れてしまったわたしに、またその喜びを思い出させてくれた。
まるで歌を忘れたカナリヤに歌を思い出させるように。
そう思ったとたん、美奈代の口から、自然に、子供の頃におぼえた懐かしい童謡のメロディがついて出た。
歌を忘れたカナリヤは柳の鞭《むち》でぶちましょうか
いえいえ、それはかわいそう
歌を忘れたカナリヤは
象牙《ぞうげ》の船に銀の櫂《かい》
月夜の海に浮かべれば……。
しかし、そのとき、機嫌よく鼻歌をうたっていた美奈代の口からぴたと歌が止まった。
手だけ動かしながら、目は窓の外の少年の姿を追っていたのだが、その少年に近づいてきた一人の女の姿が目に入ったからだった。
それを見た美奈代の眉間《みけん》に、いつものように不機嫌そうな縦じわが一本寄った。
武に近づいて来たのは日美香だった。手にタオルをもっている。武は斧を振り上げようとした手をとめ、彼女が差し出したタオルを受け取ると、何やら話しながら、それで顔や首筋の汗を拭った。
二人が何を話しているのかは聞こえないが、武が何か言うたびに、日美香は空を向いて弾けるように笑っている。
もともと奇麗な娘ではあったが、しっかりしすぎて、やや冷たく見えるのが玉に瑕《きず》という印象があった。それが、最近になって、その冷たさが和らぎ、明るくなったぶん、いっそう奇麗になったように見える。同性の美奈代の目から見ても眩《まぶ》しいほどだ。
あの娘は恋している。
恋しはじめている……。
ふっとそんな気がした。
相手は……たぶん、あの少年だ。
日美香の、ここ数日の微妙な変わりよう、まるで薄皮を一枚脱いで脱皮でもしたような、全身の細胞という細胞が一斉に花開いたとでもいうような、この突然の輝きの原因は、恋以外には考えられなかった。
美奈代自身、遥《はる》か昔、ちょうど今の日美香くらいの頃、自分がそんな変貌《へんぼう》を遂げて、兄の久信を驚かせたことがあった。
「おまえ、最近、奇麗になったな……」
兄は美奈代の顔をつくづくと眺めて、まんざらお世辞でもないように言った。
聖二との縁談がほぼ決まりかけた頃のことだった。
あの頃がわたしの人生で一番輝いていたときだった……。
美奈代は、目だけは執拗《しつよう》に窓の外の若い二人を追いながら、手元を休めて、過去を振り返った。
夫となった神聖二は、美奈代にとっては、いわば初恋の人でもあった。幼いときから、その姿をどこかでちらと見かけただけで、興奮して夜も眠れないほど、密《ひそ》かに恋焦がれていた相手でもあった。
でも、この恋は叶《かな》わぬ恋だとあきらめてもいた。村長の娘ということを除けば、自分にはなんの取り柄もない。美人でもないし可愛《かわい》いわけでもない。器量はせいぜい十人並み。どこにでもいる田舎娘の一人にすぎない。そのことはちゃんと自覚していた。
この村では特別な家柄として仰ぎ見られている神家の次男で、しかも、お印のある子として生まれつき、周囲からは「様」付けで呼ばれている聖二と自分とが釣り合うわけがない。
あの人も、きっと長男の貴明さんのように、東京であか抜けた美しい女性と出会い、その人を村に連れ帰って、お嫁さんにするのだろう。
そう思い込んでいた。
一方通行の片思いに身を焦がしたとしても、それはブラウン管の中のアイドル歌手や俳優に恋焦がれることと同じこと。
片思いは死ぬまで片思い。
そう思って、その想《おも》いを胸の奥深くにしまい込み、はじめからあきらめていたのに……。
地元の短大を卒業する間際になって、思いもかけなかったことを当時村長をしていた父の口から聞かされた。あの聖二が自分を嫁にほしがっていると。
そんな話を聞かされたときは夢でも見ているのではないかと思った。
それまで聖二とはろくに口をきいたこともなかった。むろん、美奈代が聖二に恋していたように、相手も……などと自惚《うぬぼ》れるほど能天気でもなかった。
だから、最初は、なぜあの人がわたしなんかをと不思議でしょうがなかったのだが、父の話を聞いて合点がいった。
聖二と直接話したりしたことはなかったが、神家で村の顔役が集まる宴会などが開かれるたびに、母と一緒に台所仕事の手伝いに駆けつけることがよくあった。
そのときに、美奈代の明るい性格のことや、骨惜しみせずによく働き、料理上手であることなどが、神家の女たちを通じて、聖二の耳にも入っていたらしいということだった。それであの娘ならと見初められたのだと……。
美奈代は素直に父の言葉を信じた。恋愛とはとても呼べないかもしれないが、それでも、密かに恋焦がれていた相手に、自分を認めてもらえたという喜びで、天にも昇る心地がした。
この縁談が本決まりになり、半年間ほどの婚約期間は、美奈代の四十年に及ぶ半生の中で最も幸福で輝いていた時期だった。
婚約時代、夫は優しかった。美奈代のたあいもないおしゃべりにいやな顔ひとつせずに耳を傾けてくれ、会うたびに気遣いのようなものを見せてくれた。
父や兄のような、女にも平気で手をあげるような粗暴で野卑な男たちばかりを見て育った美奈代にとって、その姿も言動も、同じ男かと思うほど違っていた。
夫の自分に対するそんな態度は結婚したあともずっと続くものだと信じていた……。
しかし、美奈代のこの甘い夢想は、神家に嫁いで二カ月足らずであっさりと破られた。夫の態度が手のひらを返したように豹変《ひようへん》したのだ。
父たちのように手こそあげないものの、用がないときは口をきくのもいやだという態度をあからさまに見せるようになり、美奈代を見る目つきも、新妻というより、新しく雇い入れた女中でも見るような冷淡で見下したものになった。
それでも、最初の一、二年は、夫が婚約時代とは人が変わったように冷たくよそよそしくなったのは、この人も、他の男たちのように、釣った魚に餌《えさ》は必要ないと考えているからだろうくらいに思っていた。
結局、一緒になってみれば、その実態は村の男たちと大して変わらなかったという苦い発見は美奈代を失望させはしたものの、こんな結婚をした自分が不幸だとはまだ思っていなかった。
この村の男と結婚した女たちは、多かれ少なかれ、自分と同じような思いを味わっていると思っていたし、母や義姉《あね》もそうだった。そんな中で、神家に嫁げただけでも、このあたりでは玉《たま》の輿《こし》と呼ばれ、同級生からは羨《うらや》ましがられていたし、その相手も自分が幼いときから憧《あこが》れていた人だった。
これがおとぎ噺《ばなし》なら、憧れの王子様と結婚してめでたしめでたしで終わるのだが、そこから始まる現実はそれほどめでたくはないということを身をもって知っただけのことだった。
だから、夢見ていたことと現実が食い違い、多少の失望はあったとしても、自分はまだまだ幸運な方だと思っていた。
神家に嫁いで数年後に父が病で亡くなり、その葬儀の夜、酔っ払った兄の口からあのことを聞くまでは……。