あの夜……。
親戚《しんせき》縁者がみな帰った夜、兄と二人きりで座敷に残っていたとき、酔った兄の口から、はじめて、聖二と自分との結婚が取り決められたいきさつを聞かされた。
聞かされたといっても、亡父にまつわる思い出話をポツリポツリとしているうちに、つい兄が口を滑らせたといったものだったが。
それは、二人の結婚は、神家と太田家が結束するためのいわば政略結婚だったということだった。
当時東京で起こった倉橋日登美一家殺害事件に裏で加担していた両家が、その犯罪行為を隠すために結束する必要があり、そのために、美奈代を聖二に嫁がせて姻戚関係を作りあげることで、その結束をかためようとしたのだという。
久信はそんなことをはっきりとは言わなかったが、それとなくほのめかした。美奈代はそれを聞いて愕然《がくぜん》とした。
ようするに、自分は男たちの勝手な思惑の道具にされたということなのか。
それまでは、夫が自分を妻に選んでくれたのは、恋愛とは言えないにしろ、それなりに自分のことを見ていてくれ、妻にふさわしい女と認めてくれたからだと思っていた。
でも、そうではなかった。聖二は、最初から美奈代個人のことなど見てはいなかった。毛筋ほどの関心ももっていなかったに違いない。ただ、村長の年頃の娘ということで、太田家との結束をかためるために必要な道具くらいにしか見ていなかったのだ。
そのことが分かったとたんに、美奈代の中で何かが弾け飛んだ。それまで、我慢に我慢を重ねていた心の張りのようなものがプツンと音を立てて切れてしまった。
まだ僅《わず》かに残っていた夫への思慕の念が完全に消え果てた瞬間でもあった。
もし、あのとき、子供でもできていたら……。
美奈代は遠い目をして思った。
夫との間に子供でもできていたら、また話は違っていたかもしれない。夫には絶望しても、我が子を生きる糧にすることはできただろう。
しかし、嫁いで二年目に一度妊娠したものの、三カ月にも満たずに流産してしまい、そのせいか、それからは身ごもりにくい身体になってしまった。
結局、この年になるまで、自分の腹を痛めた子供をもつことはかなわなかった。村の因習にしたがって、日女が生んだ私生児の養母となって、その世話をするだけの毎日だった。来る日も来る日も、台所仕事と自分の腹を痛めたわけでもない子供たちの世話に明け暮れるだけの……。
一体、わたしの人生はなんだったのだろう。
若い頃はふっくらとしていた頬《ほお》もげっそりとこけ、年齢の割りにはひどく老けこんでしまった顔を鏡で見るたびに、美奈代は、そう自問自答するようになっていた。
いつも楽しげに囀《さえず》っていたカナリヤは、神家という籠《かご》の中に閉じ込められて、いつしか歌うことを忘れてしまった。自分の囀りなどに耳を傾けてくれる人はどこにもいないと知ったときから……。
そして今、目の前に……。
武と談笑している日美香をじっと見つめている美奈代の目に獰猛《どうもう》な黒い炎が宿った。
わたしが失ったものをすべてこれから手に入れようとしている若い女がいる。
今年の五月にはじめて会ったときから、あの娘が好きではなかった。あのとき……。久しぶりに買い物をしに長野市まで出たときに乗った帰りのバスでたまたま乗り合わせた彼女を一目見たときから……。
あのあと、養子縁組をして、表向きは養母《はは》ということになったのだが、あの娘は、夫のことは「お養父《とう》さん」と呼ぶくせに、わたしのことは、けっして「お養母《かあ》さん」とは呼ばない。呼ぶ必要があるときは、「おばさん」と言う。
そして、わたしを見るときの目も、戸籍上とはいえ母親になった女を見るような目ではない。明らかに、自分よりも劣る使用人か何かでも見るような目をしている……。
あの娘は本当に夫によく似ている。実の父娘《おやこ》でもここまでは似ないだろうと思うほどに何もかも。
だから、よけい、あの娘が憎い……。
しばらく立ち話をしていたが、やがて日美香はその場を立ち去り、武はタオルを首にかけたまま、また薪割《まきわ》りに専念しはじめた。
斧《おの》を振り上げ降ろす動作は、前よりもきびきびとして、内心の弾む気持ちを抑え切れないとでもいうように見えた。
たぶん、武の方も……。
美奈代は苦々しく思った。
日美香を異性として意識しはじめているに違いない。本人は隠しているつもりだろうが、はたから見ていると、そんな気配がありありと見てとれる。
先日も、台所に水を飲みにきたとき、ふと思いついたという表情で、「日美香さんも日女だから誰とも結婚できないんだよね」と確認するように、その場にいた美奈代に聞いたことがあった。
そんなことはない、日女とはいっても、彼女はお印の出た日女ということで特別だから、村の掟《おきて》からは自由なはずだと答えると、「ふーん」と一見気のなさそうな顔で聞いていたが、その目が一瞬、嬉《うれ》しそうに輝いたのを美奈代は見逃さなかった。
日美香の恋は、自分のときのように一方通行ではない……。
しかも、あの夫が、なにゆえか、この二人の接近を後押ししているようにも思える。将来は二人を一緒にさせようという腹づもりなのではないか。そんな気さえした。
でも、この二人はもしかしたら……。
美奈代の中に黒い疑念が沸き起こった。
それは、明確な形ではないが、この数カ月、美奈代の脳裏の片隅をずっと占めていた疑惑でもあった。
日美香がこの村に来たときからずっと……。
あの夜。
父の葬儀の夜、酔った兄の口から明かされたことは、もうひとつあった。
昭和五十二年の大祭で兄は三人衆の一人をつとめることになっていた。しかし、祭りの直前になって、兄はこの役をある人物に譲ったというのだ。聖二から頼まれて、村民には内緒で、別の人物にこっそり入れ替わったのだと……。
その人物の名前までは兄は明かさなかったが、美奈代にはそれが誰であるか薄々察しがついた。
兄や夫に村の掟を破らせるほどの影響力のある人物などここには存在しない。いるとすれば、ただ一人だけ……。
しかも、あの祭りの前日、美奈代は、その人物が久しぶりに「里帰り」をしてきた姿をその目で見ていた。
武はそのことを知っているのだろうか。
自分の父親が日美香の父親でもある可能性があるということを……。