あの様子を見ていると、とても、そのことを知っているようには思えない。
でも、日美香の方は知っているはずだ。
そもそも、彼女が五月の半ば、この村に来たのは、実父を捜すためだったのだから。
どうやって知り得たのかは知らないが、彼女は、自分の父親が、昭和五十二年の大神祭で三人衆をつとめた男たちの中にいるということまでは知っていた。
そして、そのうちの二人までは血液型などから父親ではありえないということは探り当てており、残る一人がと疑っていた。
それが兄の久信ではないことは、そのときに教えてやったが、兄に代わって三人衆をつとめた「人物」の名前までは打ち明けられなかった。
それでも、養子縁組をしたあと、やはり、このことは日美香に教えてやろうと思い直し、七月のある日、週末を利用して訪ねてきた彼女を人気のない場所に連れ出して、「あなたの父親のことを知っている———」と切り出しかけたところで、美奈代の言葉を遮るように意外な返事が戻ってきた。
「そのことならもういい。お養父さんに何もかも聞いた。わたしの中では解決していることなので、おばさんも忘れてほしい」
年上の美奈代を思わずひるませるような、二十歳の小娘とはとても思えないようなおとなびた目をしてそう言ったのだ。
しかも、その夜、夫の部屋に呼び付けられて、「日美香の父親のことは決して公言するな。もし、人にしゃべるようなことがあれば、この家から叩《たた》き出されるだけでは済まないと思え」と厳しく叱責《しつせき》された。
そのとき、美奈代の中で、それまでは疑惑でしかなかったものが確信に変わった。
やはりそうだったんだ……。
だから、日美香も知っているはずだ。
武が異母弟《おとうと》であることを。
知っていながら……。
なんという恐ろしい娘だ。
武が異母弟であることを知りながら、今度の大祭の神迎えの神事の日女役を引き受けるなんて。
聖二から何もかも聞いているのなら、あの神事の隠された儀式のことも知らないはずはないだろうに。
それなのに……。
この世の穢《けが》れとは全く無縁のような楚々《そそ》とした顔と姿をして、もっとも穢れたことを平然としようとしている。
あれは化け物のような娘だ。
美しい顔をした化け物だ。
それは夫も同じだ。
武と日美香の関係を誰よりも知っていながら、止めるどころか、何食わぬ顔をして、二人を結びつけようとさえしている。
きょうだいが結婚するなど人間のすることではない。人の道に背くことだ。夫のしようとしていることは人のすることではない。やはり、あれは、人間の心などもってはいない蛇の化け物だ。
この村では、大神は蛇神といわれて、蛇を敬い祀《まつ》る風習があるから、公然とは口にできなかったが、美奈代は小さいときから蛇が大嫌いだった。
あんな薄気味の悪い生き物……。
いくらこの村の神様だからと言われても、好きになれないものは、どう努力しても好きにはなれなかった。
聖二も日美香もまさにあの蛇の化身のようだ。
子供の頃に読んだ、日本中の伝説を集めた本の中に、蛇が美しい男や女に化けて人間をたぶらかしに来るというお話が幾つかあった。あれと同じだ。
みんな、あのたおやかな美しい外見にだまされてしまう……。
わたしも最初はそうだった。
あの美しい姿の内側に隠された冷酷な蛇の心までは見えはしない。
あの少年も……。
武がかわいそうだ。
何も知らずに、このままでは、夫や日美香の餌食《えじき》にされてしまう……。
同じお印をもつといっても、あの子は彼らとは違う。あの子は良い子だ。まだ純真|無垢《むく》で、蛇の毒に冒されてはいない。
東京では何かと問題を引き起こす不良のように言われていたらしいが、ここに来てからは、そんな風にはちっとも見えない。わたしの目には、素直で心根の優しい子のように見える。
そもそも、あの薪割りをはじめたことだって、あの子の優しさからだ。わたしが風呂焚《ふろた》きに使う薪をあそこで割っていたとき、武が通りかかり、「ここでは女が薪割りするのか」と驚いたように聞いたことがきっかけだった。
男手がないわけではないが、神家の男の殆《ほとん》どが日の本神社に仕える神官だから、こんな力仕事や汚れ仕事は一切しない。こうした仕事はすべて、神官の嫁などの、日女ではない女たちがやっている、と答えると、武は、「女には無理だよ。俺がやってやる」と、美奈代の手から斧を奪い取るようにして、慣れない手つきで薪割りをはじめたのだ。
そんなことやめてください、お印の出た人にそんなことはさせられません、と慌ててやめさせようとしながらも、本当は嬉《うれ》しかった。
こんな風に気遣ってくれる男などこの家には、誰一人としていなかったからだ。若い頃は白魚のようだった手が男のように節くれだち、どんなクリームを塗ってもひび割れの治らない荒れた手になっていることなど、夫はもちろん、誰も気にもとめてくれなかった……。
あの子だけが気遣ってくれた。
あの子は昔のわたしだ。
何も知らないまま、恋に恋して、夢と希望だけをもってこの家に嫁いできて、そして、その夢も希望も粉々に打ち砕かれ、蛇の餌食となったわたしの……。
このままでは、あの子も、わたしのようになってしまうかもしれない。聖二や日美香の真の姿を知った頃にはもう遅いのだ。取り返しがつかなくなっている。
そうだ。
今、ここで教えてあげよう。
武はここに来てまだ日が浅い。お印が出たということで、神家の人間とみなされるようになったが、これまでは村とは殆ど無縁に暮らしてきた、よそ者同然だ。この村のことは何も知らないに違いない。
わたしもこの村に生まれ育った者である以上、この村の秘密を全部話すわけにはいかないが、せめて、日美香の父親が誰なのか教えてあげなければ。彼女が武にとって本当はどういう存在なのか教えてあげなければ。
そうしなければ、何も知らないあの子に大きな罪を犯させることになる……。
たとえ、わたしのしようとしていることが、いずれ夫の耳に入って、夫を怒らせ、この家を追い出されるはめになろうと、あるいは、それ以上の制裁を受けることになろうとも……。
今、ここであの子の魂を救うことができるならば、わたしはどうなってもかまわない。
武を見つめる美奈代の中にそんな悲愴《ひそう》な使命感にも似た思いが抑え切れないほどに膨れ上がっていた。
それに……。
美奈代の口もとに薄笑いが浮かんだ。
これは夫への強烈な復讐《ふくしゆう》にもなる。
何もかも自分の思いどおりに事が運ぶと思い込んでいる傲慢《ごうまん》な男への、この二十年間、妻を虫けらのようにあしらい続けてきた男へのささやかな復讐。
巨大な獅子《しし》の身中に潜んだたった一匹の小さな虫が、時には、その獅子を倒すこともあるのだということを思い知らせてやる……。
美奈代はそう決心すると、何かに憑《つ》かれたように、洗い物を途中で放り出し、台所の裏口からサンダルをつっかけて外に出た。
そして、薪割りを続けている少年の方に足早に近づいて行った。