あの娘《こ》なら……。
あの娘なら、育て方によっては、不世出の大歌手に育ちそうな気がする。
あの娘の第一声を聴いたとき、一瞬にして、全身の鳥肌が立った。子供の頃、はじめて、舞台に立った母の第一声を聴いたときのように……。
音感と声質に、非凡なものが感じられた。
もし、あれがアマチュアシンガーのコンテストか何かだったら、彼女は、間違いなく入賞、それどころか優勝すらしていたかもしれない。
ただ、あくまでもアマチュアバンドのオーディションということで、ボーカルだけを評価するものではなかったことから、バンドそのものの総合点の低さから、落とさざるをえなかったが……。
それでも、このまま落とすのは忍びなくて、他の審査員に働きかけて、審査員特別賞というのを急遽《きゆうきよ》もうけて与えた。あの賞は、バンドというより、あの少女一人に与えたものだった。
あの娘を、一シンガーとして世に出すことができたなら……。
今まで正規の訓練を受けたことがないためか、発声法も自己流というか粗削《あらけず》りで、プロの耳で聴けば欠点も多分にあったが、何よりも資質がある。たった一年、必要な訓練を受けるだけで、見違えるように成長するだろう。そう予感させるものがあった。
あの娘を育てたい。
歌えるアイドルとしてではなく、歌だけで勝負できるシンガーとして。
そう思いつくと、矢も楯《たて》もたまらなくなって、彼女の連絡先を調べ、宝生自身が受話器を取って電話をしていた。
電話をかけるまでは、当然、あの娘がこの話に乗ってくると信じて疑わなかった。一度オーディションに落ちているのだから、この申し出は、彼女にとって奇跡にも近い僥倖《ぎようこう》であるはずだと。電話の向こうで小躍りせんばかりに喜ぶはずだと。
そのときの彼の意識の中には「一度捨てたものを拾ってやる」という多少思い上がった気持ちがなかったといえば嘘になるだろう。
ところが、いざ、電話に出た本人と話してみると、相手のテンションは意外なほど低かった。「宝生」と名乗っても、「え?」と聞き返すほどで、どうやら、こちらの名前さえろくに覚えていない様子だった。しかも、驚いたことに、話を最後まで聞きもしないで、アッサリと断ってきたのである。「歌手になるつもりはない」と。
それを聞いて、少し慌てた。
アマチュアバンドのコンテストにボーカルとして出場したということは、将来は歌手になりたいと思ったからではないのか。
そう聞くと、火呂の答えは、歌をうたうのは子供の頃から好きだったが、それを職業にする気はない。大学を卒業したら、生まれ故郷の沖縄に帰って、小学校の教師になるつもりだ。コンテストに出たのは、ギター担当だった弟に、せっかく予選を通ったのに、本選間際になって、ボーカルの子に突然やめられて困っている、助けてくれと土下座せんばかりに頼まれたからだ。人助けのつもりで出ただけで、落ちたことをむしろ喜んでいる。二度と人前で歌うつもりはない。
取り付く島もないとはこのことかと思ったほど、それは、キッパリとした断り方で、とりあえず事務所の人もまじえて話だけでもしないかと食い下がってはみたものの、結局、最後まで、「その気はない」の一点張りだった。
断られた……。
予想外の展開に、電話を切ったあと、いささか茫然《ぼうぜん》とはしながらも、断られたことに対する怒りとか屈辱感のようなものは全く感じなかった。
むしろ、その迷いの感じられない潔い断りっぷりに清々《すがすが》しいものすら感じていた。
本人にその気がないなら仕方がないか。そのときはそう思い、この件は忘れようともしたのだが、なぜか、すぐにあきらめ切れないものがあった。
忘れようとすればするほど、照屋火呂という二十歳の娘と自分とがどこか似ているような気がして、それが気になり出したのだ。実は、宝生自身、今の業界に身をおく元になった、高校時代のロックバンドにしても、彼が率先して作ったものではなく、バンドのメンバーだったクラスメートに、キーボード役が足りないから入らないかと誘われて、仕方なく仲間になったという経緯があった。
もともと引っ込み思案なところがあって、人前に出ることは好きではなかったから、派手な格好をしてステージに立つロックバンドなどというものは、本来ならば一番苦手とするものだった。
それでも、クラスメートの誘いを受けたとき、考えた末に、やってみようかという気になったのは、ロックは嫌いではなかったし、何よりも、あまりにも内に籠《こ》もりがちな性格を変えたいという自己改革の気持ちも多少はあったからだった。
どんなジャンルであろうと、頂点にまで昇りつめる「スター」のタイプには大きく分けて二通りあるようだ。
一つは、最初からその座を明確な目標としてめざし、そこにたどりつくためなら手段を選ばず、なりふりかまわず、他人を蹴落《けお》とし、ひたすら貪欲《どんよく》に爪をたてるようにして階段を昇る攻撃的なタイプ。
そして、もう一つは、前者に比べると、遥《はる》かに無欲というか、本人にはその気が全くなかったのに、強運という追い風を受けて、気が付くと、いつの間にか頂点に立っていたという受動的なタイプ……。
宝生自身は、明らかに後者だった。
中学の頃から、将来は音楽関係の仕事につきたいと漠然《ばくぜん》と思い始めていたが、それはただ音楽が好きだから、できれば好きなことをして食べていける生活をしたいと単純に願っただけだった。
その道で成功して有名になりたいとか金持ちになりたいなどとは思わなかった。
もともと、子供の頃から物欲に乏しいというか、何かを是が非でも欲しいと思ったことがなかった。それが玩具《おもちや》であろうと食べ物であろうと。
たまにデパートなどに買い物に行くと、床に転がり手足をバタバタさせて大泣きに泣いている子供がいる。そばには子供を叱り付けながら、困ったような顔をした母親がいる。
そんな光景に出くわすと、不思議な見世物でも見つけたように、立ち止まって、思わず見つめてしまうことがあった。
一体、あの子供は何を欲しがっているのだろう。玩具かお菓子か。何をあんなに大泣きに泣いて母親を困らせるほど欲しがっているのだろう。
自分はあんな風に、何かを全身全霊で欲しがったことがあるか。ねだったことがあっただろうか。
そんな記憶は一度もない。何かを欲しいと強く願う前に、いつも、なんとなく与えられてしまったからだ。お菓子だって玩具だって、欲しいと思う前に、回りの大人が先回りして与えてくれる。その物に対する欲望や執着が自分の中で目覚める前に……。
現在の名声や富にしても、欲しいと思って手に入れたものではなかった。ほんの遊び半分からこの業界に入って、たまたまとんとん拍子にいっただけだ。汗をぬぐい、歯を食いしばり、必死の思いではい上がってきたわけではない。気が付くと、何で稼いだのかも分からないような莫大《ばくだい》な収入が週単位で懐に転がりこんでくるような身分になっていた。
むろん、母親の胎内にいたときから、いわば音楽漬けになっていたわけで、遺伝的なものも含めて、才能と資質には最初から恵まれていたのだが、それ以上に、強運に恵まれていたとしかいいようがなかった。
それはひょっとしたら、亡き祖母が言っていたように、彼が生まれたとき、藤本家の庭に突如として現れた「白蛇」が守護霊にでもなって、もたらしてくれた幸運だったのだろうか。
ただ、幸運すぎることは、必ずしも幸福ではない。不幸ともいえる。幸運すぎるゆえの不幸とでもいおうか。
例えれば、食欲がないのに、目の前に常に御馳走《ごちそう》が並べられているようなものなのだ。飢えている者には、目の眩《くら》むような御馳走でも、飢えを感じていない身には、さほど嬉《うれ》しい光景ではない。何を食べても、美味《おい》しいという感激がない。まずくはないという程度の感慨しかなかった。そもそも、これが本当に食べたいものなのかどうかさえ分からない……。
三十二歳になる今日まで、ずっとそんな状態でいたような気がする。
もっとも、こうした、いわゆる「飽食」の感覚ともいうべきものが、今の時代の何かを象徴しており、そうした感覚から生み出された音楽的産物が、同じような感覚を共有する若い世代の圧倒的な支持を受けることになったのかもしれなかったが……。
ところが、今、そんな彼の中にはじめて「飢え」の感情が生まれた。「欲」と言い換えてもいい。
ある「欲望」が、長いこと放置されていた埃《ほこり》まみれの古いランプの芯《しん》に微《かす》かな火が灯《とも》されたように、彼の中で突如として芽生えたのである。
永遠に生き続けるものを生み出したいと願う強い「欲望」。それは、どんな金銭欲、名誉欲、物欲よりも大それた欲望かもしれなかった。そして、その「欲望」を実現するためには、どうしても必要な人材、それが、あの照屋火呂という娘《こ》だった。だから、あの娘を是が非でも手に入れなくてはならない。
しいていえば、この「欲望」は、九歳の誕生日の直前、父に「ペットを買ってやろう。何がいい?」と聞かれたとき、一瞬考えて、「蛇」だ。「蛇」が欲しい。すぐさまそう思いついたときの、あの欲望に似ていた。
あのとき……。
「蛇が欲しい」と答えたあと、父は困ったような渋い表情をして黙りこんでしまった。犬や猫ならともかく、まだ幼い子供のペットに「蛇」というのは、と躊躇《ちゆうちよ》したのだろう。同居している妻や娘たちが嫌がることも考慮したのかもしれない。父は、しばらく考えたあと、「蛇ではなくて、亀ではどうだ?」と代案を出してきた。
蛇に少し似ていて、蛇よりも無害そうな生き物。亀なら子供用のペットとしても不自然ではない。そう考えて、そんなことを言ったのだろうが、彼は、決然として首を横に振った。欲しいのは「蛇」だ。犬でも猫でもネズミでも亀でもない。「蛇」なんだ。はっきりとそう感じた。妥協の余地はなかった。どうしても駄目だというなら、ペットなんかいらない、と思うほどに……。
あのときの「欲望」に似ている。でも、あのときは、父はまたもや少し考えて、息子の意志が意外に固いことを知って、渋々といった感じではあったが、「まあ、いいだろう」とすぐに許してくれたので、その「欲望」はアッサリと叶《かな》えられてしまったのだが。
もし、あのとき、父があれほど物分かりがよくなかったら、あんなにすぐに欲しいものが手に入らなかったとしたら、「蛇が欲しい」という突如自分の中に芽生えた欲望は、どんどん膨れ上がって、そのうち、何がなんでも欲しいと願うほどの強い「執着」にまでなっていたかもしれない。
そうだ。
自分は決して無欲な人間じゃない。それどころか、本当に欲しいと感じたものに対しては、限りなく執拗《しつよう》で貪欲な人間なのかもしれない。
自分の内部に突如目覚めた「欲望」に気づいたとき、同時に、彼自身の中に眠っていた本質的な部分にも気づかされていた。本当は、恬淡《てんたん》どころか、とてつもなく欲深な人間であるということを。
昔から、物欲の強い、いつも「欲」でギラギラしている人間が苦手だった。そういう人間は、顔立ちそのものはそんなに悪くなくても、一種独特の醜さを身にまとっているので、すぐに判別できる。回りにそんな人間がいると、つい遠ざけてしまった。しかし、苦手とは思っても、「嫌い」ではなかった。
苦手と嫌いは微妙に違う。
むしろ、羨《うらや》ましいと思う面もあった。自分が何を欲しがっているか、明確に分かっている人間、それに向かって、なりふりかまわず、「欲」を剥《む》き出しにして突進していける人間のストレートな情熱が羨ましいとも思ってきたのである。
もしかすると……。
そういうものとは無縁だと思ってきた自分の中にも、それはあるのかもしれない。ただ、今までは、自分の内部に潜んだ、そうした「欲望」を発動させるに値する対象物に出会わなかっただけだったのだ。
要するに、スイッチがなかなかオンにならなかっただけだ。
でも、今、そんな対象物に出会ってしまった。「欲望」を発動させる装置がオンになってしまった……。
こうでも考える以外に、恋人関係にあった女たちに一方的に別れを告げられたときでも、「去る者は追わず」の精神で、未練を断ち切れた(というか、断ち切るほどの未練をはじめから感じてもいなかったのだが)自分が、なぜ、恋人でもなんでもない、一度会っただけの小娘のことで、これほど思いわずらい、あきらめ切れないのか、理由が分からなかった。
もう一度……。
東京に戻ったら、もう一度、あの娘にコンタクトを取ってみよう。
いや、一度でなく、何度でも。
彼女が根負けして、首を縦に振るまで、何度でも……。
広大な出雲大社の境内を散策しながら、そんなことを考えていた宝生輝比古は、ようやく、決心がついたように、そう心の中で呟《つぶや》くと、元来た道を戻りはじめた。
明日が母の命日ということもあったが、出雲の地を五年振りに訪れようという気になったのも、思えば、この決心をするためだったのかもしれなかった。
ここに来れば、迷っていたことの答えが出る。
東京を出るときから、そんな気がしていた。