その夜。
蛍子は、社を出ると、高校生の甥《おい》と同居している自宅マンションにはすぐに戻らず、馴染《なじ》みのバー「DAY AND NIGHT」に立ち寄った。
ジャズ好きの老マスターが一人で細々と経営しているこのバーには、八月に、元恋人の伊達浩一と五年ぶりにここで再会して以来、週に一、二度くらいの割合で、よく顔を出すようになっていた。
扉を開けると、珍しく先客がいた。
海底を思わせるマリンブルーの照明に照らされた、まさにウナギの寝床のような狭いバーなので、先客といっても一人である。
フリーカメラマンの鏑木浩一《かぶらぎこういち》だった。
日の本村がらみで、元週刊誌記者の達川正輝《たつかわまさてる》の変死事件を探っているうちに、ひょんなことから知り合った男である。
「やあ、どうも……」
蛍子の姿を認めると、鏑木は、ちょっと照れたように挨拶《あいさつ》した。
「あれから、達川さんの事件の方は……?」
隣の席に座るや否や、蛍子はそう訊《たず》ねた。
鏑木は、日に焼けた真っ黒な顔にやや浮かない表情を浮かべて、首を微《かす》かに横に振り、「所轄署の刑事に、あの事件をもう一度他殺の線で調べ直すように言ってはみたが、警察の反応は今ひとつ鈍い。あれが殺人だという何か確証めいたものでも出てこない限り、どうも本腰を入れて捜査をし直す気はなさそうだ」というようなことを言ってから、
「伊達さんの方も、相変わらず消息不明のままのようですね」
と言った。
「実は、今日……」
蛍子は、老マスターが作ってくれたカクテルに軽く口をつけてから、「消えた子供たち」というテレビ番組のこと、その件で、昼間、近藤道代という女性に会ったことを話した。
「その番組なら、俺も見ましたよ!」
鏑木は驚いたように言った。
「といっても、途中からですが。うちに帰って、テレビをつけたらやっていたんで、なんとなく」
「わたしもそうなんです。帰宅して何げなく見ていたら——」
「埼玉のショッピングセンターの駐車場から連れ去られた幼女の顔写真が、以前、日の本村で見かけた女の子に似ていた……と?」
「ええ」
「てことは、その近藤さつきという幼女を誘拐したらしいサングラスをかけた若い男というのは、日の本村の人間?」
「もしくは、日の本村の誰かに頼まれたか」
「しかし、何のために幼女誘拐なんか……?」
鏑木は信じられないという顔で呟《つぶや》くように言った。
「一つ考えられるのが、来月の頭にあの村で行われる大神祭に関係しているのではないかということです。今年は七年に一度の大祭にあたり、大祭のときは、祭りの最後の夜に——」
蛍子がそう言いかけると、
「一夜日女《ひとよひるめ》の神事か!」
鏑木がはっとしたように言った。
「まさか、その神事の主役にその子を据えるつもりで、誘拐……?」
蛍子は頷《うなず》いた。
「ひょっとしたら、二十年前と同じことが起きたのかもしれません。あの倉橋母娘に起きたことと同じことが。あの村に一夜日女になる幼い日女がいなかったために、急遽《きゆうきよ》、よそから攫ってでも連れて来る必要があったのでは……」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
鏑木が慌てたように口を挟んだ。
「確か、その『一夜日女』というのは、神家の血を引く女児でなければいけないんですよね? 誰でもいいってわけじゃないんでしょう? てことは、近藤さつきという子供は神家と何かかかわりがあったんですか。たとえば、倉橋日登美のときのように、母親があの村の出身だったとか」
「いいえ、それが、道代さんの話では、そうではなさそうなんです。彼女自身は埼玉生まれだそうですし、彼女の母親というのも、岡山の出身で、日の本村とは全く縁がないようなんです。ただ、倉橋日登美のときのように、道代さんの母親が実はあの村の出身であることを娘に隠していたという可能性はあるかもしれませんが」
「そして、それを日の本村の連中に嗅《か》ぎ付けられて、孫にあたるさつきが攫われた……?」
鏑木はただでさえギョロリとした大きな目を皿のようにして聞き返した。
「ええ。わたしもそう考えてみたんですが、ただ、誘拐された状況を考えると、それもちょっとおかしいような気もするんです」
蛍子は考えこみながら言った。
「おかしいって?」
「道代さんから聞いた話では、ショッピングセンターで買い物をするとき、最初から、さつきちゃんを車に残して行ったわけではないというんです……」
蛍子はそのときの状況を詳しく説明した。
最初の買い物では、道代はさつきを一緒に連れて行った。だが、買い物を終えて、車に戻ってきたところで、トイレットペーパーを買い忘れたことに気が付いた。そこで、もう一度、それを買いにセンターに戻ろうとした。そのとき、また娘を連れて行くのは面倒になって、シートベルトをつけたままの娘を助手席に残して車を出た。
「……このとき、うっかりして、車のドアロックを忘れてしまったというんです。トイレットペーパーを買い忘れたり、車のドアロックを忘れたりしたのは、道代さんのうっかりミスともいうべきもので、もし、こうした偶然が重ならなければ、あの状況で、道代さんがさつきちゃんを一人で車に残して行くことはなかった。つまり、さつきちゃんが誘拐されることはなかったと思われるんです。近くの車両にいたというサングラスをかけた若い男が犯人だとすると、それこそ、ほんの一瞬にできた隙を利用した、言い換えれば、かなり偶然に助けられた犯行ということになります」
「そうか……」
鏑木が唸《うな》るように言った。
「もし、犯人が日の本村の男で、最初からさつきちゃんを誘拐のターゲットにしていたとしたら、もっと計画的に犯行を行うのではないかというわけですね。倉橋日登美のときのように」
「ええ。そう考えると、近藤さつきの誘拐事件は、たまたま起こった突発的なもので、日の本村とは関係ないような気もしてくるんです。もっとも、身の代金の要求等はいっさいなかったというから、営利誘拐の線だけはなさそうなんですが」
「ただ、この件にも、『若い男』がからんでいるのが、なんか気になるな」
鏑木が言った。
「達川さんの事件のときも、三人組の怪しい若い男たちが、マンションの住人に目撃されていたんだし……。とはいえ、『若い男』だけでは漠然《ばくぜん》としすぎていて、共通項ともいえないかもしれませんが」
「若い男といえば」
そのとき、二人の会話に、老マスターが思わずというように口を挟んだ。
「先日、店に興信所と名乗る男がやってきて、喜屋武さんのことをあれこれ訊《き》いていったんですよ。それが、年の頃は二十代前半くらいの若い男だったんです」
「興信所?」
蛍子は驚いたようにマスターを見た。
「ええ、本人はそう言ってました。縁談の下調べだと」
「いつですか、それは」
「三日ほど前だったでしょうかね」
興信所。縁談がらみの調査。若い男……。
そういえば、甥《おい》の豪《ごう》が同じようなことを言っていたことを蛍子は思い出した。十日ほど前、自宅マンションの向かいの桜井というお宅に、興信所を名乗る若い男が訪れて、蛍子のことをあれこれ訊いていったと……。
同じ男だろうか。
「どんな男でした?」
蛍子はマスターに訊いた。
「薄いブラウン系のサングラスをかけた普通の若い男でしたよ。中肉中背で、これといって特徴はない。はじめは一見の客のような顔をして一人で飲んでいたんですがね」
「で、どんなことを訊いたんですか」
「縁談に関する調査ということで、喜屋武さんの交友関係というか、今、恋人らしき男性はいるのか、過去にそういう男性はいたのかというようなことを……」
「マスター。まさか、伊達さんのことを?」
蛍子はぎょっとしたように言った。
「いや。私は何も喋《しやべ》っていません。お客さんのプライバシーに関することは、誰に訊かれようと話すつもりはありませんから。何も知らないと答えました」
「そう……」
蛍子がほっとしたのもつかの間、
「ただ、間の悪いことに、そのとき」
マスターは渋い表情になって言った。
「星川さんが来ていたんですよ」
「星川さんって、あの常連の?」
星川というのは、五年前、蛍子が伊達と付き合っていた頃、この店で何度か顔を合わせたこともある、店の常連の一人だった。
気さくな男だったが、その気さくさゆえに、酔うと誰かれとなく話しかけ、饒舌《じようぜつ》になる傾向があった。
「ええ。この星川さんがね。私は目でよけいなことは喋るなと合図したんですが、気が付かなかったらしくて、あなたと伊達さんのことを、その男に喋ってしまったんですよ……」