「あの子とは?」
聖二は聞き返した。
「武さんです」
「武が? 武が郁馬の苛立ちの原因だとおっしゃるのですか」
「ええ。なんだかそんな気がして……」
「しかし」
聖二は腑《ふ》に落ちないという顔つきで言った。
「東京にいた頃、あの二人は仲がよかったと聞いてます。年がそんなに離れていないせいか、叔父|甥《おい》というより、友達か兄弟のようにつるんでいたという話でした。武本人も言ってましたよ。実兄の信貴君よりも、郁馬の方が気が合って付き合いやすかったと」
「仲が良かったから尚更《なおさら》……」
耀子は呟くように言った。
「武さんにお印が出たことで、これまでは弟のように思っていた武さんと対等ではなくなってしまったことが、今の郁馬には少し面白くないのかもしれませんね。ああ見えて、あの子も負けん気が強い方ですから。それに、そのことで、あなたの関心が武さんに向いてしまわれたことも気に病んでいるのかも」
「……」
「郁馬はあなたのことを兄というより父親のように思っていますから。そのあなたが、武さんをわざわざ養子にしてまでお社を継がせたがっていると知って、少なからずショックを受けたのかもしれません。これまでは、あなたの跡を継ぐのは自分だと思い込んでいたようですから」
「その件に関しては……」
聖二は言い訳するように慌てて言った。
「武本人が全くその気がないようなので、私としては、今まで通り、郁馬に継がせるつもりでいますが」
「でも、今はその気がなくても、この先、武さんがその気にならないとも限らないでしょう? 大神祭が終わったあと、あの子も大きく変わっているかもしれませんよ。もし、そうなったとき、お印のある武さんの意向が何よりも優先されるのではありませんか?」
「それは、まあ……」
「郁馬はそうなることを恐れているのかもしれません。それに」
耀子はそう言いかけて、窓の方を指さし、
「ご覧なさい。武さんが来てから、子供たちの中心にいるのはいつも武さんです。今までは、ああして子供たちと遊んでいたのは郁馬でしたのに……」
窓の外では、神家だけでなく近隣からも集まってきた子供たちが、縁側で饅頭にかぶりついている武を取り囲むようにして、楽しそうに饅頭を食べていた。
その中には、それまでは遠巻きに見ていた神家の少女たちも加わっていた。
「この前の相撲のときも、郁馬はうちにいたはずなのに、結局、最後まであの騒ぎには加わりませんでしたし……」
ふと漏らした姉の言葉に聖二ははっとした。そう言われてみればそうだった。
先週の土曜日の午後。中庭で、武が中心になって相撲大会めいたことをしていたとき、やはり、こうしてこの部屋から見ていたことがあった。
あのとき……。
郁馬の姿はどこにもなかった。あの時間帯なら、社の雑用を済ませて、うちにいたはずなのに……。
これまでの郁馬だったら、あんなときは真っ先に飛び出してきて、子供たちと相撲を取っていただろう。神官の衣装を脱いでしまえば、二十三歳の、まだ学生気分の抜けない陽気な青年に過ぎなかった。
それなのに、庭の騒ぎをどこかで聞きながら、うちに籠もったきり出てこようともしなかった……。
そして、そのことに、今こうして姉に指摘されるまで、自分は気が付きもしなかった。
さすがに姉の目は鋭い。
女性ならではの細かい観察眼だった。いや、実母ならではと言い換えた方がいいかもしれない。常に頭の片隅でわが子のことを気にかけているから、他人なら見過ごしてしまうような些細《ささい》なことでも見過ごさずに、ちゃんと心に留めているのだろう。
一方、自分の方はといえば、と聖二は思った。
父代わりといいながら、武のことにばかり気を取られて、郁馬の存在をすっかり忘れていた……。
そのことが郁馬の不満や苛立《いらだ》ちの原因になっていたというのか。
「前に、武さんは、太陽のよう、それも、真夏のギラギラと照りつける太陽ではなくて、どこかほのぼのとした秋の木漏れ日のようだと言ったことがありましたね」
耀子は窓の外に視線を向けたまま言った。その透明感を帯びた鋭くも柔らかな眼差《まなざ》しは、人の集まった中庭を突き抜けて、こんなに天気が良いのに、なぜかカーテンが閉まったままになっている一つの窓にじっと注がれていた。
「人は光のある所に集まります。しかも、より強い輝きを放つ光源に集まりがちです。ランプの灯火のもとに集まっていた人も、蛍光灯の光を知れば、そちらに移ってしまうでしょう。そして、蛍光灯の光に集まった人も、太陽が雲間から顔を出せば、電灯の明かりを消して、太陽光の下に集まるでしょう。より明るい光の方へ、より強い光の方へと人は本能のように導かれていくのです。でも、人々に光の恵みを与えてくれる太陽も、時には、その光ゆえに闇を作ってしまうこともあるのですね」
「……」
「太陽の光をいっぱい浴びて喜んでいる人々の足元で、その人々から必要とされなくなってうち捨てられたランプは、闇の中で一体何を想っているのでしょう……」