「あ……こちらの方ですか」
その男は、いきなり玄関の戸が開いたことに、驚いたような顔でぽかんとしていた。年の頃は、二十代後半。洗いざらしのブルージーンズの上下に、ぼさぼさ頭、眉《まゆ》の濃い色黒の男だった。肉厚のがっちりした肩から、黒革の大型のショルダーバッグを重そうに下げている。
その男の風体をじろりと見ながら、そうだと不機嫌な顔のまま答えると、男は、ジーンズの上着のポケットを探って名刺を取り出し、「こういう者です」と言って、それを郁馬の鼻先に突き出した。
仕方なく、受け取って見てみると、名刺には、「フォトジャーナリスト、鏑木浩一」と刷り込まれていた。
フォトジャーナリスト?
東京のカメラマンか。
郁馬は咄嗟《とつさ》にそう思った。
「……何か御用でも?」
そう訊《たず》ねると、鏑木と名乗る男は、「或《あ》る旅の雑誌の企画で、この村の大神祭の模様を取材しに来たのだが、宿泊している日の本寺で、こちらが祭りの一切を仕切る宮司さんのお宅と聞き、できれば、宮司さんにお会いして、色々お話を伺いたい」という旨のことを、身振り手振りを添えて説明した。
「雑誌の取材?」
郁馬は、男の名刺を手にしたまま、眉をひそめた。
雑誌の企画にしては、随分急な話だなと思ったのだ。こういう企画が持ち上がっているならば、もっと早くに何らかのコンタクトがあってもいいのではないか。それを、大神祭を二日後に控えた直前になって……。
「失礼ですが、何という雑誌ですか」
念のためにそう訊ねると、男は、ショルダーを開けてがさごそと探り、大判の雑誌を取り出すと、
「これです。この号は、インドの祭りを取材したときのやつですが。わりと読者に評判がよかったもので、今度は日本のあまり知られていない祭りを取り上げようということになりまして」
そう言って、その雑誌の中程を開いて、郁馬に見せた。
ぺらぺらとめくってみると、男が示したページには、なるほど、数ページに渡って、インドの民間の祭りらしきものを取材した項があり、記事の末尾には「鏑木浩一」という署名が、そして、写真の一枚には、現地の人と並んで映っている彼自身の姿が掲載されていた。確かに本人に間違いない。服装も、やはりブルージーンズの上下で、着たきり雀かと思うほど、全く同じものだった。
これを見る限り、鏑木と名乗る男が、自称通りのフォトジャーナリストとやらであることは間違いなさそうだった。
そのことに少し安心して、郁馬は雑誌を男に返すと、
「玄関先で立ち話もなんですから、中にお入りください」
と、言葉遣いも幾分改めて言った。
「それはどうも。では、お邪魔します」
鏑木は雑誌をショルダーに戻すと、嬉《うれ》しそうに礼を言って、郁馬の後について、うちの中に入ってきた。
「これは聞きしに勝る立派なお屋敷ですねぇ。百年くらいは軽くたっていそうですね」
「あちこち建てましてはいますがね」
「お寺の住職さんから伺ったんですが、こちらの神家というのは、古事記にもその名を残す名家とか。たいしたもんですねぇ。うちの先祖なんて名前もないような水呑み百姓ですよ」
年月で煤《すす》けた太い梁《はり》をめぐらせた高い天井や、磨き込まれた黒光りする長い廊下、大黒柱という死語にも近い言葉を思い起こさせるふしくれだった太い柱などを珍しそうに眺め回しながら、感心したように言った。
「ところで、この村のことや大神祭のことはどこでお知りになったんですか」
玄関近くの応接間に案内し、テーブルにつくと、郁馬は早速そう訊ねた。
「どこでと言われても……」
鏑木は一瞬返答に詰まったような顔をした。「こんなあまり知られていない山奥の古社の祭りなどに、何がきっかけで、わざわざ取材に来るほど興味をもたれたのかなと思いまして……」
探るような眼差《まなざ》しで聞くと、
「いやあ、そのあまり知られてないというところが最大の魅力なわけでして。信州といえば、神社や祭り関係では、戸隠《とがくし》とか諏訪とか有名なところは他にもありますが、津々浦々に知れ渡っていますからね。誰もが知っているところを取材しても面白くない。どこか、面白そうで、それでいて、あまり人に知られていない所はないかしらんと探していたら、たまたま図書館で見つけた或る本に、この村の奇習や奇祭のことが書いてあったんですよ。それを読んで非常に興味をもったというわけです」
鏑木は、真っ黒な顔に真っ白な歯を覗《のぞ》かせて、終始笑顔でそう答えた。
「その……たまたま図書館で見つけた本というのは?」
郁馬はさらに追及した。
「あ、それは、真鍋伊知郎という高校の先生が自費出版したという本です。タイトルは確か『奇祭百景』とかいいましたか。著者の名前は知らなかったんですが、『奇祭』というタイトルになんとなく引かれて読んでみたところ、これが意外に面白くて」
真鍋伊知郎の「奇祭百景」……。
またこの本がからんでいるのか。
郁馬の目が僅かに光った。
「その本の記述によれば、この日の本神社の祭神というのが蛇であるとか。実は、俺が取材した、あのインドの祭りというのも、全て蛇がらみなんですよ。インドにも古くから蛇を神様と崇《あが》める強烈な蛇信仰が根付いていたようで。それで、日本とインド、同じ蛇神つながりで取り上げたら面白いんじゃないかと思って、例の雑誌の編集部に企画を持ちかけたら、編集長からすぐにGOサインが出た、てなわけなんですが、それで、もしさしつかえなければ、こちらの宮司さんにお会いして、詳しいお話など伺わせてもらえたらと……」
鏑木はそう説明したあと、おそるおそるという風に訊ねた。
「あいにくですが、兄は、その祭りの準備に追われて多忙でして。申し訳ありませんが、お相手はできないと思います」
郁馬が冷ややかにそう言うと、鏑木はがっかりしたように、「そうですか」と肩を落とした。
「でも、僕でよろしければ、ご協力しますが? 一応、これでも神官のはしくれですから、大神祭に関することなら、おおかたのことは答えられると思います」
「おお、そうですか。それは有り難い。あの、それで、失礼ですが、あなたは……?」
「申し遅れましたが、神郁馬といいます。宮司の弟です」
「それでは早速……」
鏑木はそう言うと、肩から降ろして床に置いていたショルダーバッグの中から、小型のテレコを取り出すと、テーブルの上に置いた。
「あ、その前にちょっと」
郁馬が言った。
「先に申し上げておきますが、大神祭に関しては、見物はご自由ですが、写真撮影は一切お断りしております。それでもよろしいですか」
「えっ。撮影は駄目なんですか」
鏑木が驚いたように目を剥《む》いた。
「祭りの様子は一切撮影禁止です。そのことは、真鍋さんの著作物にも触れられていたと記憶していますが」
「あれ。そうだったかなぁ。読み落としていたのかな」
鏑木は頭を掻《か》いた。
「もし、勝手に撮られるようなことがあれば、フィルムは全て没収させて戴《いただ》きます」
「うわ。それはきついなぁ……。撮影は全く駄目なんですか。社の撮影とかも?」
鏑木は食い下がるように聞いた。
「お社の撮影については、祭りの最中はご遠慮いただきますが、前日に拝殿などを撮影されるのでしたら構いません」
「あ、そうですか。それと、こちらで日女と呼ばれている巫女《みこ》さんの姿が一枚欲しいんですが。なんでも、ここの巫女さんは、赤い袴《はかま》ではなくて紫の袴だということで、ぜひ一枚……」
「それは、ご本人の日女様の許可さえ取って戴いたら構わないと思いますが。隠し撮りみたいな真似さえしなければ」
「分かりました」
「それと、社の奥にある物忌《ものい》みと、鏡山の麓《ふもと》にある蛇ノ口という沼はご神域なので立ち入りも撮影も一切ご遠慮ください」
「その物忌みというのは……?」
「この村で大日女様と若日女様と呼ばれる真性の巫女たちが集まって暮らしている家屋です。社の拝殿の裏手から行けるのですが、お社関係者以外は立ち入り禁止になっています。その旨の標識が出ていますので、それ以上は絶対に立ち入らないでください」
「ずいぶんと……禁止事項が多いんですね。かなり秘密主義というか」
鏑木はややげんなりした表情で言った。
「観光用の祭りではありませんから」
郁馬はそっけなく答えた。
「それと、禁止事項といえば、もう一つ」
「え。まだあるんですか」
「大祭最後の夜に行われる『一夜日女の神事』については、撮影はもちろん、見物もしてはならないことになっています。もし、こうしたお約束を一つでも守って戴けなかったことが判明した場合は、村の若い者によって、少々手荒な歓迎を受けることがあるかもしれませんので……」
「袋だたきにあう、とか?」
鏑木はぎょっとしたように聞き返した。
「まあ、そのへんは何とも……」
郁馬は微笑してお茶を濁し、こう言い直した。
「祭りの期間中は、無礼講ということで、朝から酒も入りますし、若い連中はふだんより血の気が多くなっています。ちょっとした弾みで喧嘩沙汰《けんかざた》や刃傷《にんじよう》沙汰もおきやすいのですよ。そういったものによそから来た方も巻き込まれることがありますので、十分、お気をつけください、ということです」
「つまり、約束を守らなければ、血の気の多い若いもんの喧嘩に巻き込まれたような格好で袋だたきにするから気をつけろ。そうおっしゃりたいわけですね?」
「……」