「兄さん。ちょっとよろしいですか」
次兄の部屋の前で襖《ふすま》越しに声をかけると、
「郁馬か?」
と返事があった。
「はい。ぜひお耳に入れたいことが」
そう言うと、
「急ぐことなのか」
迷惑そうな兄の声が返ってきた。すぐに「入れ」と言わないところをみると、部屋に誰かいるのかもしれない、と郁馬は思った。襖を隔ててそんな気配も感じた。
「大事なことなので、できれば早い方が」
さらに言うと、少し沈黙があった後、「入れ」とようやく許しが出た。
襖を開けてみると、案の定、聖二は一人ではなかった。座卓を挟んで、日美香がいた。卓の上には、古文書らしき古びた書物が数冊広げられている。チラと見ただけで、それが代々の宮司によって書き留められた神家の家伝書であることに、郁馬はすぐに気が付いた。兄の部屋に日美香がいたことに、一瞬ドキリとしながらも、ああそうか、とすぐに合点した。
ここに来てからは毎夜こうして、夕食後は、この部屋で、門外不出の神家の家伝書を読む手ほどきを受けているという話を日美香自身の口から聞いていた。
郁馬も、子供の頃、ここで同じことをした記憶がある。
「今夜はこのくらいにしておきましょう」卓の上に広げられていた古文書を閉じて重ねながら、聖二がそう言うと、日美香は素直に頷《うなず》き、持参してきたらしいノートと筆記具を抱え、「おやすみなさい」と言って部屋を出て行った。
立ち去ったあとも、あたりには仄《ほの》かな残り香のようなものが漂っていた。
香水?
いつから香水なんかつけるようになったのだろう。
その、けっして強くはないが、艶《なまめか》しい香りに、つい心乱されそうになりながら、郁馬はふとそんなことを思った。
「何だ、大事な話というのは?」
聖二はやや不機嫌そうな顔つきで言った。
「実は……」
次兄の前ににじり寄ると、住職から得た情報のことを話した。
「僕の思った通りでした。大神祭の取材なんていうのは口実で、鏑木という男も、あの喜屋武蛍子が送り込んできたのに間違いありません」
「……」
話を聞いても、兄がさほど反応も見せず、興味がないように黙ったままなのに焦れたように、郁馬は身を乗り出して言った。
「あの女はまだ疑っているんですよ。だから、今度は別の男を送り込んできたんです。全くしつこい女です。やはりこの際、あの女は思い切って始末した方が——」
「まだそんなことを言ってるのか。しつこいのはおまえの方だ」
「……」
「喜屋武という女に関しては監視するだけでいい。そう言ったはずだ。何度も同じことを言わせるな」
「でも、兄さん。そんな変な仏心を出して、のんびり手をこまねいていたら、そのうち取り返しのつかないことになりますよ」
「仏心で言ってるんじゃない。あの女がこの村を探っている真の理由が分かるまでは早まったことはするなと言っているんだ。それとも、そちらの方は分かったのか?」
「いや、まだ、その件は智成に探らせているのですが……。でも、鏑木という男の手帳のアドレス欄に達川正輝の名前があったということは、やはり、達川経由であの女はこの村に疑惑を持ったとしか」
「だから、おまえの思考は短絡的だと言うんだ」
聖二は苛立《いらだ》ったように声を荒げた。
「……」
「鏑木という男の手帳に達川正輝の名前があったからといって、なぜ、それが喜屋武と達川の接点の証明になるんだ? そこから分かるのは、鏑木と達川が知り合いだったらしいということだけじゃないか」
「それはそうですが……でも」
郁馬は不満そうに口ごもった。
「とにかく、女にはまだ手を出すな。それと、その鏑木とかいう男にもだ」
「このまま、勝手にさせていいんですか。取材と称して何を嗅《か》ぎ回るかしれませんよ」
「一人で来たんだろう? どこをどう嗅ぎ回ったところで、どうせたいしたことはわかりゃしない。とりあえず、物忌みと蛇ノ口には近づけるな。特に物忌みには。立ち入り禁止の札だけでは不十分かもしれないな。あの女の差し金で来たとしたら、夜中にでも忍びこみかねない。大祭が終わるまで、あそこには終始見張りをつけて、絶対に社の奥には入りこめないようにしておけ」
「……はい」
「それと、郁馬」
立ち上がりかけた弟を制するように言った。
「はい?」
「おまえ……武の身体に出たお印のことをまだ疑っているのか」
「いえ、別に……」
「あれはお印に間違いない。大日女様にもお見せして、お印に間違いないというお墨付きも頂戴している。それをいまさら、あれはただの打ち身の痣《あざ》かもしれないなどとつまらないことを言い触らすんじゃないぞ」
「……」
郁馬は、唇を噛《か》み締め、不満そうな表情で兄を見返していたが、「はい、分かりました」と呟くように答えた。
そのとき、廊下の方で、誰かが走ってきたようなバタバタという足音がした。
「あなた、大変です」
その足音がぴたりと止まったかと思うと、慌てふためいた声が襖の向こうからした。兄嫁の美奈代の声だった。
「どうした?」
聖二が聞くと、
「武様が……」
襖を開けて、美奈代がおろおろしたような顔で言った。
「武がどうしたんだ?」
「お夕飯をいつもの半分しか食べてないようなので、具合でも悪いのかと気になって、今見てきましたら、ひどい熱で……」
「熱?」
聖二はぎょっとしたように聞き返した。
「ええ。四十度近い高熱を出して……」