「武兄ちゃーん」
うとうとしかけていた新庄武は、窓の外から突如聞こえてきたかん高い子供の声にはっと目を覚ました。
あの脳天に突き刺さるようなボーイソプラノは俊正か。
武はのろのろと布団から手を出して、額に載っていた濡《ぬ》れタオルをはずすと、起きようとしたが、身体中の筋肉が弛緩《しかん》してしまったようにけだるく、起き上がる気力も湧かない。
仕方なく、上げかけた頭を水枕の上に戻すと、ぽちゃりと生ぬるい水が頭の下で動いた。それは、ゴム臭い匂いと共に、小さい頃はよく味わった感触だった。
「武兄ちゃーん」
「武兄たーん」
俊正のボーイソプラノとハモるように、舌ったらずな声も聞こえてきた。いつもコブのようにくっついて来る弟の良晴だ。
「こら、俊正。大声を張り上げるな」
どこからか別の声がした。郁馬の声だった。
「あ、郁馬さん。武兄ちゃんは?」
「風邪で寝てるよ。だから、大声を出すな」
「風邪?」
「ああ、昨日の夜、突然、四十度も熱出してな。夜中に医者呼んだりして大変だったんだ」
「馬鹿でも風邪ひくの?」
「……」
「ぼく、ばかじゃないから風邪ちいたー」
良晴の自慢するような声がした。
「あ、そっか。もしかしたら、良晴のがうつったのかも。こいつ、昨日まで風邪引いてたから」
「でも、なおったよー」
「こいつさ、昨日、武兄ちゃんの背中にへばりついて、ハナこすりつけてたから。そんとき、うつしちゃったのかも。おかげで、良晴の方は治っちゃったけどね」
そうか。
昨夜、夕食後に突然襲われた発熱の元凶は、あのチクノウのハナ垂れか。
なんで元凶があんなにピンピンしていて、うつされた俺が寝込むんだ。
外の声を聞きながら、武は、まだ熱に浮かされているような朦朧《もうろう》とした頭で考えていた。
「風邪かぁ。ふーん。馬鹿でも風邪引くのか。じゃ、しょうがないな。帰ろう、良晴」
「やだー。兄たんと遊ぶー」
「だめだよ。風邪で寝てるんだって。おまえが悪いんだぞ。ハナこすりつけて菌うつしたから」
「ぼく、なんにもちてないもん。兄たん、だいちゅき。兄たんと遊ぶー」
「兄ちゃんの風邪、なおったらまた遊ぼうな。じゃあね、郁馬さん」
といったん、ボーイソプラノは遠のきかけたが、
「俊正」
郁馬の呼び止める声がした。
「なあに?」
「おまえ、毎日のようにここに遊びに来てるようだが、副村長の息子だからって、あまり調子に乗るなよ」
「え。なんで? 来ちゃいけないの?」
「遊びに来るのはいいが、まるで自分のうちみたいに気楽にふるまうなって言ってるんだ」
「それのどこがいけないの? うちは神家には大きな貸しがあるから、あそこに行っても、ぺこぺこすることないって、いつもお父さんが言ってるよ」
俊正の声は挑戦的だった。
「とにかく」
郁馬が苛《いら》ついたように言った。
「あまり武様に馴《な》れ馴れしくするなってことだ。おまえらの遊び友達じゃないんだからな。お印の出た日子《ひこ》様だってことを忘れるなよ」
「……武兄ちゃんって、本当に日子様なの?」
「そうだよ。宮司様と大日女様がそうお認めになったんだ。だから、おまえももっと口のきき方とか気をつけろ。武兄ちゃんなんて気安く呼ぶな。武様と言え。子供だと思って今までは大目に見てきたが、これからはそうはいかないからな」
「ぷっ。今の郁馬さんの言い方、宮司様そっくり。よっ。この物まね鳥」
「俊正!」
「それに郁馬さんがそんなこと言うのおかしいや」
俊正の不服そうな声がした。
「なんでだよ」
「だって、前に郁馬さんだって言ってたじゃないか。あんなのお印じゃない。きっとどっかですっころんでできたただの痣《あざ》だって。あんな馬鹿が日子様のはずがないって」
「だ、黙れ。今日はもう帰れ!」
郁馬の慌てたような声。
「へん。言われなくたって帰るよーだ。武兄ちゃんがいなくちゃつまんないもん」
俊正の憎たらしげな声が少し遠のいたかと思うと、
「あ、そうだ。郁馬さーん!」
と遠くから怒鳴っているような大声がした。
「まだいたのか。早く帰れって」
「今年の風邪、お腹にもくるみたいだから気をつけた方がいいよ!」
「腹?」
「うん! もしさ、良晴のがうつったんなら、同じ症状になるはずでしょ! こいつ、昨日まで下痢ピーだったんだよ! それでね、クソもらすからって、ずっと紙おむつしてたんだよ! 武兄ちゃんもクソもらしてもいいように紙おむつした方がいいよ! 日子様がクソもらしたらかっこわるいじゃん! 紙おむつだよ! 忘れないでね!」
「……」
俊正め。地球の裏側にまで聞こえるような大声で、あんなことを……。
あれじゃ、俺が紙おむつして寝てるように思われちゃうじゃないか。
元気になったら、兄弟並べて、仲良くしばき倒してやるからな……。
武は布団の中でそう固く決心した。
言いたいことだけ言って、ようやく矢部兄弟は帰って行ったらしく、窓の外は静かになった。
郁馬もうちの中に入ってしまったのか、誰の声も聞こえてこない。
のどかな野鳥の囀《さえず》りが時折聞こえるだけだ。
郁馬さんが陰で俺のことを……?
「あんな馬鹿が日子様のはずがない」
俊正が言っていたことを思い出して、武はふと顔を曇らせた。
ここに来てから、郁馬の様子がどこかおかしい……。
お印とやらが出たことで、自分に対する言葉遣いや態度がやけに丁寧になったのだが、それも、慇懃《いんぎん》無礼というか、どこか悪意を込めたような馬鹿丁寧さで、武はなんとなく嫌だなと思っていたのだ。
今までみたいに呼び捨てでいいのに……。
東京に居た頃は、何でも話せる気さくな兄貴のような存在だった。それが、ここに来てからは、距離を感じるというか、妙によそよそしくなった気がする。変なわだかまりのようなものができてしまったようだ。
これまで何かとわだかまりがあった実兄の信貴とは、先日、一晩語り明かして、互いの腹のうちをさらけ出しあい、こじれていた仲を修復できたというのに。
今度は、逆に、今まで仲が良かった郁馬との関係がなんだかねじくれたものになってしまった……。
それというのも、こんな蛇の鱗《うろこ》みたいな奇妙な痣が背中に出たためだ。
本当に、この痣は日子とかいうものの印なのだろうか。いっそのこと、郁馬が言ったように、知らぬまについた打ち身の痣か何かで、時間がたてば消えてしまうようなものだったらいいのに。
そうしたら、とうとう明日に迫った大神祭で、「三人衆」とかいう面倒な大役もやらずに済むかもしれないのに……。
武は、小さくため息をついた。
叔父に頼まれてというか、殆《ほとん》ど命令されて、渋々引き受けた役だったが、本当はやりたくなかった。
子供の頃から、心のうちで嫌だなと思っているイベントなりセレモニーが近づいてくると、必ずといっていいほど、前日に原因不明の高熱に襲われる事があった。
あれは小学校五年のときだった。学芸会の主役に抜擢《ばつてき》されたことがあった。選ばれたときは悪い気はしなかったのだが、いざ、学芸会の日が近づいてくると、急に主役という座が重荷に感じられてきた。
地震か台風でもきて、会が中止にならないかなと内心で願うようになり、地震も台風も来なかったが、その代わり、前日の夜になって、原因不明の高熱に襲われて寝込んでしまい、結局、学芸会には出られなかった。
今回の突然の発熱にしても、良晴の風邪をうつされただけなのかもしれないが、何か心理的なものが原因かもしれないな、と武は思った。
いっそこのまま、明日まで熱が下がらず、祭りに出なくても済むようになればいいのだが……。