「具合はどう?」
叔父と同じようなことを言って、日美香は中に入ってきた。両手に水を張った洗面器のようなものを持っている。
武は少しうろたえて、顔を半ば隠すように、掛け布団の端を両手でそろそろと引き上げた。枕元までやってくると、日美香は、そこに洗面器を置き、体温で温まっていた武の頭のタオルを取り上げ、洗面器の水に浸した。
それから、武の前髪を掻《か》き上げ、右手をその額にじかに置いて、熱を計るような仕草をした。
「熱、少し下がったみたいね?」
白い手を置いたまま、そう言った。
「さっき計ったら、三十八度五分だって……」
「そう? よかった。大したことなくて」
「……」
確かに熱は下がったが、こんなことをされると、また俄《にわか》に上がってしまうような気がする……。
日美香はようやく手をはずし、洗面器に浸しておいたタオルを堅く絞って、武の額に戻した。
ひんやりとして気持ちが良い。
そのまま立ち去るのかと思ったら、
「少し暗い方が眠りやすいんじゃない?」と呟いて、立ち上がり、開いたままになっていた窓のカーテンをシャーと半分ほど閉めたり、水枕や掛け布団の位置をあれこれずらして、寝やすいように調節したりと、甲斐甲斐《かいがい》しく動きはじめた。
カーテンが半分閉められて薄暗くなった部屋で、枕元を大きな蝶《ちよう》がヒラヒラと舞うように動かれたり、いきなり覆いかぶさるようにして布団を直されたりすると、ゆっくり眠るどころではなく、気もそぞろになった。
しかも、香水でもつけているのか、彼女が動くたびに、何やら悩ましげな芳香が鼻をつく……。
ただでさえ風邪の熱でのぼせた頭が、別の意味の熱で火照りはじめていた。
「俺の看病しろって叔父さんに頼まれたの? これもバイトのうち?」
そう聞くと、日美香は驚いたようにかぶりを振った。
「わたしが勝手にしていることだけど。迷惑?」
「迷惑ってわけじゃないけどさ、あんまウロウロされると気が散って眠れないよ」
「あら、ごめんなさい」
そう言って、ようやく立ち去るかと思ったら、そのまま枕元に座りこんでじっと動かなくなった。
え?
「あの……なんでそこにいるの?」
おそるおそる聞いてみた。
「誰かそばにいたほうが安心して眠れるんじゃないかと思って」
「……」
「ほら、子供の頃、風邪ひいたときなんか、お母さんがそばにいてくれると安心してぐっすり眠れるみたいなことなかった?」
「小さい時はね」
「わたしの母はお店をやっていたから、病気にでもならないとうちにいてくれなかったのよね。だから、たまに風邪なんかひくと、お店休んでそばにいてくれて、それがちょっと嬉《うれ》しかった……」
日美香は昔を懐かしむような声で言った。この「母」というのは、五月に事故死したという養母のことだろうか。
「俺んとこは、母親が専業主婦でいつもうちにいたからさ、あんま、そういうことは感じたことなかったな」
「いつもそばにあるものって、なかなか有り難みが分からないのよ。なくしてはじめて分かるの……」
「……」
「あなたのお母さんって、一度お会いしたことがあるけど、とても優しそうな方ね」
「時々うざいけど」
「贅沢《ぜいたく》なこと言って」
日美香はそう言って笑ったあとで、少し間をおいて、
「……お父さんはどんな人?」と聞いた。
声の調子が僅《わず》かに変わったような気がした。
「親父?」
「優しかった? テレビや週刊誌の報道なんかを見ると、あなたのお父さんって、頼もしくて優しい理想の父親って感じに見えるけれど」
「マスメディアの垂れ流すイメージではね」
武は吐き捨てるように言った。
「イメージだけ? うちでは違うの?」
「小さい時はともかく、中学に入る頃には——」
そう言いかけて、
「ああそういえば、この部屋、親父が使ってたんだって。押し入れの奥に古いアルバムとか教科書とかまだしまってあるみたいだよ」
そう言うと、日美香は興味をもったような顔で、
「見ていい?」と言って立ち上がり、押し入れを開けて、下の方をごそごそやっていたが、分厚い古びたアルバムを出してくると、表紙の埃《ほこり》を手で払いながら、また枕元に座った。
そして、いくら親戚《しんせき》とはいえ、他人の写真なんてそんなに面白いものかなと不思議に思うほど、熱心にそれを見はじめた。
「この人、誰か知ってる?」
アルバムを見ていた日美香がふいにそう言って、開いたままのページを武の方に寄せて見せた。
日美香が指さした所には一枚の写真が貼ってあった。白黒の古い写真だ。手前に積み木で遊んでいる男児の姿が写っていた。その背後に、同じ年頃の女児を傍らで遊ばせている若い女性の姿が写っていた。
此の家の座敷で写したものらしい。
日美香が指さしているのは、まさにその女性だった。
年の頃は、二十歳前後。とても奇麗な女だ。巫女《みこ》風の衣装を身につけ、長い髪が背中までありそうな……。
「……誰かな?」
武は首をかしげた。
手前の男児が父であることは、その写真の下に「貴明、三歳」というメモ書きが添えられていることでもわかった。
しかし、背後の若い女性ともう一人の幼児については、何も書き記されていない。
幼い子供たちを見守っている風にも見えるその様子に、最初は、父の実母、武には祖母にあたる信江かなと思ったが、すぐにそうじゃないなと思い直した。女は巫女の衣装を着ている。ということは、その女は日女だということだ。先代宮司の妻の信江は、日女ではないはずだった。
しかも、その女性は、日美香に驚くほどよく似ている。これが白黒の古い写真でなければ、そこに写っているのは、巫女装束をつけた日美香自身ではないかと思ってしまいそうなほど似ていた。
彼女もその写真の女が自分によく似ていることに驚いて、この写真に目を止めたのだろう。
「もしかしたら、この前信江さんが言っていたヒサコって人じゃないかしら……」
そう呟《つぶや》いたのは、日美香だった。
ヒサコ?
あ、と武は思った。
そういえば、先日……。
座敷で一同が揃って夕食をとっていたときだった。いつもは隠居部屋に引き籠《こ》もりがちな信江が、突然よろよろと、座敷に入ってきたことがあった。
そして、そこにいた日美香を一目見るなり、「ヒサコ様。ヒサコ様ではありませんか。いつ戻られたのですか。ご無事だったんですか。ヒトミ様を連れてどこへ行かれたのかとそれは心配していたのですよ……」などと訳のわからないことを言いはじめて、あぜんとしている日美香に、取りすがろうとしたことがあった。
それは、座敷にいた者が一斉に箸《はし》を止めるほどの、ちょっとした騒動だった。
叔父がすぐに「連れて行け」というように傍らの妻に目で合図すると、叔母の美奈代が慌てて立ち上がり、「お姑《かあ》さん、この方はヒサコ様じゃありません。ヒサコ様のお孫さんの日美香様ですよ」と子供をあやすように言いながら、老女を座敷の外に連れ出した。
どうやら、老人性|痴呆《ちほう》症が進行していた信江は、過去と現在の記憶が混乱して、日美香を祖母のヒサコという女性と間違えたようだった。
あとで、うちの者に聞いた話では、この「ヒサコ」という人は、先代宮司の妹で、日美香の母親がまだ赤ん坊の頃、それを連れて村から出奔したという「伝説の」女性だった。これほど似ているならば、いくら痴呆症とはいえ、信江が間違えたのも無理はなかった。
「これ、わたしにくれない?」
写真をじっと見ていた日美香が突然そう聞いた。その古い写真は、よほど彼女の琴線に触れるものがあったらしい。
「だめ?」
「俺に聞かれても困るけど、別にいいんじゃない? ここに残していったということは、親父にとってそんなに大事なものじゃないんだろうし」
武はそう答えた。
昔の玩具《おもちや》や教科書と一緒に生家に残していったということは、父にとっては、こんな古いアルバムはがらくた同然にすぎなかったのだろう。だとしたら、その中から一枚くらい写真がなくなっても、どうってことはないだろうと。
「ありがとう……」
日美香はそう言うと、アルバムからその写真だけを丁寧にはがして、それをそっとスカートのポケットにしのばせた。
それを見ているうちに、武の頭にふとひらめいたことがあった。
「ねえ、日美香さん」
日美香自身は、自分の父親のことを何か知っているのか、どう思っているのか……。
彼女の祖母の話が出たついでに、良い機会だから聞いてみよう。
そう思いついたのだ。
「日美香さんの本当の母親というのは、俺の親父の従妹なんだよね?」
慎重にそう切り出した。
「そうよ」
「お父さんは誰なの?」
「……」
「この村の人?」
「……」
日美香はすぐには答えなかった。ちらと目をあげてその顔を見ると、膝《ひざ》の上のアルバムに伏せられていた顔が、心なしか強ばっているように見えた。
さきほどの叔父の反応に似ている……。
「お父さんのことは何も知らないの?」
重ねて聞くと、
「いいえ。知ってるわ」
日美香はしばらく沈黙したのち、きっぱりとそう答えた。
「この村の人? 今もここに住んでるの?」
「……」
「俺の知ってる人……じゃないよね?」
「……知ってるはずよ」
「えっ。誰?」
武は驚いて聞き返した。思わず起き上がりかけて、濡《ぬ》れタオルが頭からずり落ちた。俺の知ってる人って、叔父の話と違うじゃないか。
「あなたもこの村に来て、その人にはもう会ったはずよ……」
日美香はアルバムから顔をあげ、謎めいた微笑を浮かべてそう言った。
「会った? 俺が? どこで?」
この家の人間以外で、これまでに会ったといえば、この前の宴会の席で、太田村長、矢部副村長、村議会の面々……。
武は必死で思い出そうとした。
「ほら、日の本寺で……」
日美香はヒントを出すようにそう言った。
「日の本寺? 日の本寺で会ったっていうの?」
「ええ」
「……」
日の本寺で会った男といえば、老住職だけだ。まさか、あの八十歳をとっくに超えたようなよぼよぼの爺《じい》ィがと思いかけたとき、日美香が言った。
「お印が出たということで……。あなたにも会うことが許されたはずよ」