全く大した女だ……。
部屋を出た郁馬は、廊下を歩きながら、感嘆しつつも苦々しく思っていた。
あの若さで、もう弄《あめ》と鞭《むち》を使い分けることを知っていやがる……。
媚びを含んだ泣き落としがきかないと分かると、さっと手のひらを返したように、命令的になり、しかも、最後には、その命令口調の後味の悪さを拭うように、赤子を諭すような優しい口調でしめくくるとは。
とても、二十歳やそこらの並の娘ができる芸当ではない。これまで知り合ったどんな女を思い返してみても、あのようなことを、半ば本能のように咄嗟《とつさ》にやってのけられる女などいなかった。
あの年頃の若い女にできることは、せいぜい媚びを含んだ哀願くらいまでで、それが駄目だとわかれば、あとは、めそめそ泣くしか能がない。
それを、あの女ときたら……。
こちらの方が年上だというのに、まるで相手の手のひらの上で弄《もてあそ》ばれたような気分だった。
もっとも……。
こちらだって、ああいう心理的な駆け引きに全く疎《うと》いわけじゃない。いかにも迷っているように粘ってみせたが、本当は、あのとき、もう少し「お願い」口調が続いたら、渋々という風を装って折れるつもりだった。
こんな重大なことを次兄にすぐに知らせないということは、今までの自分だったら到底考えられないような背信行為だったが、武のお印の件があって以来、次兄への信頼も忠誠心も根底から揺らいでしまっている。
兄とは一心同体だと思っていた。単なる弟の一人ではなく、後継者として見込まれたのだと。だからこそ、その期待に少しでも応《こた》えようと努力もしてきた。兄の片腕に成り切ろうと思ってきた。
でも所詮《しよせん》……。
もっと兄の意に適《かな》った後継者が現れれば、自分など、用済みとばかりにあっさり見捨てられる程度の存在に過ぎなかったのだ。武の件で、そのことをまざまざと思い知らされた。そうと分かった以上、忠犬のように一途《いちず》に尽くすのは馬鹿らしい……。
それに、もし、今回の件が、いずれどこからか兄の耳に入り、なぜすぐに報告しなかったと叱責《しつせき》を受けたとしても、日美香に頼まれて仕方なくそうしたのだと言い訳すれば、それ以上の責めを負うこともないはずだ。
実の娘でもここまではと思うほど、兄は、日美香のことを愛し大切にしている。その愛娘がしたことなら、多少は大目に見ようとするだろう。ひどく叱責《しつせき》するようなこともあるまい。
まあ、この件は後でばれたところで、大したこともなく収まるに違いない。
それより、ここは、兄の命令を無視してでも、日美香の願いの方を受け入れ、二人だけの秘密をもった方が得策かもしれない。二人だけの秘密をもつということは、これまでつけ入る隙を全く見せなかった女の隙を見つけたということであり、弱みを握ったも同然なのだから……。
苦渋に満ちた表情で押し黙っていたときも、郁馬の耳元では、彼の中に棲《す》みついた狡猾《こうかつ》な悪魔がそう囁《ささや》き続けていた。そして、心の天秤《てんびん》は、実は、見かけよりも、たやすく女の方に傾いていた。
ただ……。
一つ引っ掛かっていることがあった。
日美香が双子の妹の存在を養父に知らせたくないと思ったのは、本当に口にしただけの理由からなのか。
妹をこの村の野望に巻き込みたくない。平凡でもささやかな人生を送らせてやりたい。
そう語った彼女の言葉が全部嘘だとは思わなかったが、同時に、理由はそれだけかと問い返したくなるほど胡散臭《うさんくさ》いものも感じていた。言っていることが奇麗事すぎる。
妹のことは養父には黙っていてほしい。
そう哀願したときの目の色には演技とは思えないほど必死な色があった。まるで命|乞《ご》いでもするような目だった。
たとえ、それが家族だろうが恋人だろうが、他人を守るためにあんな必死な目ができるだろうか。誰しも自分が一番可愛いはずだ。もし、できるとしたら、我が身と同様かそれ以上に愛している人間のためくらいのものだろう。それも絶対にないとは言えないが、滅多にあることじゃない。
いくら双子の片割れとはいえ、一度しか会ったことのない妹をそれほど愛しているとはとても思えなかった。妹の人生を守ってやろうと必死で願うほどに。
だとしたら……。
あんな必死な目をする別の理由があるはずだ。
大体、もし、照屋火呂のことが兄に知られたとしても、日美香が心配するほどの危険がそこにあるだろうか。もう一人お印のある娘が見つかったからといって、別に取って食おうというわけではない。
それどころか、あの兄のことだから、お印をもつ日女《ひるめ》として、日美香同様、この娘も全力で保護するような手を打つだろう。
危険どころか、守られるのだ。
両親をなくして、身内といったら何の頼りにもならない高校生の弟と独身の叔母だけという、後ろ盾などないにも等しい環境よりも、遥《はる》かに強力なシェルターで囲ってやろうというのだ。
それに、次兄と養子縁組を結べば、必然的に、財力だけでなく最高権力まで手に入れつつある長兄の庇護《ひご》さえも容易に受けることができるようになる。
むろん、そのためには、お印のある日女として、多少の不自由さと使命は受け入れなくてはならないだろうが、そのことを差し引いても、あまりある恩恵をこうむることができるのだ。
財力と権力を後ろ盾にすれば、将来の「夢」だってもっと限りなく広がるはずだ。小学校の教師などという、夢とも言えないようなちっぽけな夢ではなく、今までは頭に思い描くことすらあきらめていたような、もっと広大な夢だって見ることができる。
実際のところ、日美香が良い見本だ。養母が死ぬ前までは、大学の薬学部を出たら、将来は薬剤師になるというきわめて現実的でささやかな夢をもっていたはずだ。しかし、今の彼女の頭に、そんなちっぽけな夢など片鱗《へんりん》すら残っていないだろう。もっと壮大な可能性に立ち向かえるだけの後ろ盾を手にいれたのだから。
それなのに……。
日美香のしようとしていることは、妹を守るどころか、そうした強力な後ろ盾から妹を遠ざけることでしかないではないか。
まるで、妹にも等分に分かち与えられるべき恩恵と栄光を自分一人で独占していたいとでもいうように……。
そうか。
郁馬の口の端に引き攣《つ》ったような笑みが浮かんだ。
独占したいのか。
それが真の理由か。
彼女があのとき、なぜあんな真剣な目をしたのか分かった。
妹のためなんかじゃない。それはほかならぬ自分自身のため。自分の保身と貪欲《どんよく》さのためからだ。
ようするに、彼女は手にした甘美なお菓子を誰にも分け与えたくないのだ。自分一人で全部食べてしまいたいのだ。
なんだ……。
結局、そういうことか。
誰の手も届かないような高みで、気高く咲き誇っている純白の花に、おそるおそる近づいて、よくよく見たら、その疵《きず》一つなく真っ白に見えた花弁の裏に黒い虫食いの跡を見つけた……。
そんな気分だった。
でも、これでいい。
この方がむしろ良い。
清らかすぎる花ではさすがに気が引けて手が出せないが、我欲で少し汚れた花ならば、かえって手折りやすいというものだ……。
郁馬はほくそ笑んだ。