ああ、危ないところだった……。
郁馬が立ち去ったあと、日美香は、例の報告書をもう一度読み返しながら胸をなでおろしていた。
聖二が留守のときでよかった。こんなものを先に見られていたら……。
喜屋武蛍子の身辺を探っていれば、いずれ姪である妹のことも知られてしまうのではないか。そういう不安は前々からあった。
でも、これで、しばらくは、妹の存在が聖二に知られる心配はなくなった。郁馬は聖二の片腕のような存在だから、郁馬さえ懐柔しておけば、たとえ他からこの件が耳に入りそうになっても、郁馬という壁で阻止できる。
とはいうものの、いつまでこの男の口を封じていられるか分からないが、「報告書と写真は日美香様にお預けする」と言ったときの郁馬の目つきには、どこか秘密の悪事に加担する共犯者めいたところがあった。彼は思ったよりも兄に忠実というわけではないようだ。それならばかえって都合が良い。なんとか、あの男をこちらに引き込んで、この件は隠し通そう……。
この報告書と写真は、誰かに見られる前に処分してしまわなければ。
そう思いつき、聖二が戻ってくる前に、それを自分の部屋に持っていこうと立ち上がりかけたとき、廊下の方から足音が聞こえてきた。
日美香は、咄嗟《とつさ》に、手にした報告書を二つに畳んで、卓の上にあったノートに挟むとそれを閉じた。
そして、報告書と写真を挟み込んだノートを素早くおろすと同時に、襖が開いて、聖二が入ってきた。
慌てて手近の古文書を引き寄せ、それを読んでいた振りをした。
「……何か解らないところはありましたか」
聖二は、部屋に入ってくると、自分の座に座り、すぐにそう聞いた。
日美香の幾分あわてふためいた行動に気づいた風はなかった。
「いえ、別に……それより、お養父《とう》さんにぜひうかがいたいことがあるんです」
少し息を整えてから、何食わぬ顔で言った。
「何です?」
「転生ということについてです」
「……」
「昼間、耀子さんから少し伺ったのですが……」
そう言って、この古くから伝わる物部の特殊能力について、耀子から知り得たことを話し、
「……お養父さんも、曾祖父《そうそふ》にあたる人の転生者だと聞きましたが、それは本当でしょうか」
そう聞くと、聖二は、なぜそんなことを急に知りたがるのかと探るような表情で、日美香の顔をじっと見つめ返していたが、少し間があって、「本当です」とだけ答えた。
「その曾祖父という方は……?」
さらに聞きかけると、
「あそこにいるよ」
と言って、聖二は、和洋折衷の書斎の壁に掛かっていた一枚の大きな油絵を指さした。
日美香は一瞬「え」という顔で、その指さす方を見た。
それは、三十歳半ばくらいに見える男の胸から上の肖像画だった。この部屋にはじめて入ったときから、その時代がかって煤《すす》けた油絵のことは目に入っていたのだが、てっきり、聖二自身の肖像画だと思い込んでいた。
それほど、油絵の男は聖二に似ていた。
ただ、唯一違うのは、絵の男には口髭《くちひげ》がたくわえられていたことだった。
「これが……?」
「曾祖父の神崇高《みわむねたか》だ。よく私と間違われるんだが」
「そっくりですね……」
「まるで双子かクローンのように似ているのが転生者の特徴なんだよ。この絵は、当時まだ油絵が珍しかった時代に、たまたま曾祖父の学生時代の知り合いに洋画家を志している男がいて、その人に描いてもらったそうだ」
そう言われて見れば、その絵はどこか、今風の油絵とは違っている。技法がひどく写実的で古めかしいというか……。
「この大御祖父様《おおおじいさま》の記憶のようなものがありますか。たとえば、ご自分が知らないはずのことを知っていたり、とても古いものを見たり使ったりした記憶があるとか」
「薄ぼんやりとだが、曾祖父だった頃の記憶はあるね。例えば、この絵を描いて貰《もら》ったときの記憶も微《かす》かにある。友人の画家をこの家に招んで……。油絵具は部屋が汚れるというので、板敷きの上に新聞紙をびっしりと敷きつめて描いたこととか、部屋中に充満した油絵具の臭いとか。そういう記憶が微かにあるものだから、なんとなく懐かしくて、私が生まれる前は応接間に飾ってあったものを、こうして自分の部屋に飾っているんだ」
聖二はそう言い、
「この絵についても、曾祖父は、地方の名士とか言われる連中がやるような自己顕示欲で描かせたわけではなくて、ちゃんと目的があったようだね。そのことは、家伝の中にも、曾祖父自らの手で記されている」
「絵を描かせる目的?」
「後の転生者に自らの存在を絵姿にして知らしめるためだ。転生者の記憶の大かたは、出生と同時に失われてしまうので、絵か写真で姿を残しておくしかないんだ。そうすれば、それらを見て、自分がその人物の転生者であるかどうか確信がもてるからね。私もこの絵を見て、自分が曾祖父の転生者であることを知ったんだよ。
曾祖父は、歴代の宮司の中でも、生まれついての学者というか、非常に知的探求心の旺盛《おうせい》な人だったらしく、転生というものを純粋に研究対象として考えていたようだ。しかも、その日記によれば、曾祖父自身が先代の日子の転生者である記憶を持っていたようで、よけい、転生の秘術には強い興味を抱いていたのだろう」
聖二はそう語り、曾祖父が、五十歳の誕生日を迎えた朝に突然死したことを話した。
「突然死?」
「今で言えば、心臓発作のようなものだね。朝、いつまでたっても起きてこないので、家人が起こしに行くと、布団の中で既に冷たい骸《むくろ》と化していたそうだ。見かけは自然死のように見えるが、これは明らかに自死だ」
「自死って……自殺ってことですか」
日美香は驚いて聞き返した。
「自殺といっても、首を吊《つ》るとか薬を大量に飲むとかの自殺とは全く意味が違うが。自らの意志で古い衣を脱ぎ捨てたということだ」
「古い衣……」
「肉体のことだよ。転生の能力をもつ者にとっては、死とは終わりではないんだ。古い肉体を捨てること。季節ごとの衣替えのようなもの、あるいは蛇の脱皮のようなもの。肉体というのは魂魄《こんぱく》を包んでいる皮にすぎない。それを次々と脱ぎ捨て新しくしていくことで、魂魄は半永久的に生き続けるんだよ。
我々|物部《もののべ》が古くから蛇を祀《まつ》り、蛇神族と言われてきたのも、この蛇の特性と同じ脱皮の能力を持つ者が長《おさ》として君臨してきた部族だったからだ。
いうなれば、最近何かと話題になっているクローン技術を、医者の力を借りずに、自らの呪力《じゆりよく》だけで成し遂げることを、物部の長は、遥《はる》か太古より行ってきたということだ。自分自身のクローンを次々と造り続けてきたわけだから。
むろん、これは物部の長なら誰でもできるという術ではなくて、日子の中でも、よほど高い能力と好条件に恵まれないと、成功しない難しい術と言われているので、衣替えのように何時でも気安くできるものではないのだが」
「つまり……日子のお印というのは、転生者の印でもあるということですか?」
「それはいちがいには言えないね。武のような例もあるし……。お印のある者が必ずしも転生者ではないだろうし、また、逆に、転生者が必ずお印をもって生まれるとは限らない。ただ、日子にはこの転生の能力が最も強く備わっている、とは言われているが。
たとえば、家伝をざっと読めば、お印のある宮司の寿命は、他の宮司に較べて短いことが分かる。一番長く生きた者で、五十歳が限界だ。例の曾祖父だよ。今のところ、五十歳以上まで生きた者はいない。
これには理由があるんだ。転生の術を行うには、気力だけでなく、気力を支える体力も当然必要になる。あまり高齢になりすぎてしまうと、この体力が急激に落ちて、術を成功するのに必要な最低限の気力を出すことができなくなる恐れがある。
もし、病に蝕《むしば》まれず健康体のまま永らえたとしても、五十歳までの体力が限界と考えられていたのだろう。昔は、敦盛《あつもり》の歌にもあるように、『人間五十年』などと言われていたからね。
だから、多くの日子は、天命を無視して、五十歳を寿命と自ら定めた。曾祖父もその一人だった。この曾祖父が遺書のような形で、五十歳の誕生日を迎えた日に、自らの意志で転生の秘術をついに試すという決意を書き残しているんだ。
家伝や他の文献などの資料だけからは確実なことは言えないが、もし、これまで、日子と呼ばれる者が全て、死の間際に転生に挑んで成功させていたと仮定したら、結局、この私を含めて『日子』と呼ばれてきた者は全て、最初の転生者のクローンに過ぎないともいえるね。つまり、同じ魂魄が肉体だけを変えてずっと生き続けてきたと……」
聖二はそんなことを、やや夢見るような目で語ったあと、すぐに現実に戻ったような顔つきになって、
「こうした転生や死人反生《しびとはんじよう》のことは、物部神道の核心でもあるので、いずれ詳しくお話ししようと思っていたのだが……」
と日美香の顔をじっと見ながら言った。
「どうして急に転生のことなど、知りたくなったのです?」
「それは……」
日美香はスカートのポケットを探って、武の部屋から見つけてきた例の白黒写真を取り出すと、それを聖二に見せた。
「こんなものを見つけたからです。それを見ていたら、とても懐かしいような気持ちになって、それで、その写真のことを耀子さんに伺ったのです。そこに写っている女の子が耀子さんではないかと思ったものですから。そうしたら、耀子さんが、転生ということを教えてくれたんです。そして、もっと知りたければ、あとはお養父《とう》さんに聞けばいいと」
「……」
写真を見ている聖二の顔には、驚いているというほどではなかったが、何らかの感情を動かされたような表情が浮かんでいた。
「そこに写っている女性は、わたしには祖母にあたる人で、お養父さんにとっては、実のお母様にあたる人ですよね……?」
そう聞くと、
「……そうです。母のそばにいるのは私だ」
写真に目を落としたまま、呟《つぶや》くように言った。
「わたしもどうやら……」
日美香は思い切って言った。
「そこに写っている女性の転生者のようなのです」