聖二は、弾《はじ》かれたように写真から顔をあげた。
しかし、その顔には驚愕《きようがく》の色はなかった。
むしろ、「やはり……」というような色があった。
「驚かれないのですね。それとも、信じられませんか」
「いや……」
穴のあくほど、日美香の顔を見つめていた聖二は、我にかえったように言った。
「驚かなかったのは、私もそのような疑いをもっていたからだ。あなたが日女なのにお印があると知ったときから、もしや……と。
さきほども言ったように、お印があること自体がそのまま転生者の証《あか》しとは思わないが、その可能性は高い。そして、もし、あなたが誰かの転生者だとしたら、それは、もしかしたら母ではないか、と思っていた。この写真を見ても分かるように、あなたは母に生き写しだ。それに……」
聖二はそう言って、ふと視線を、卓の上にあった或《あ》るものに移した。
「あなたはこの部屋に初めて来たとき、そこのお手玉を手に取って、『懐かしい』と言ったでしょう?」
日美香もつられて視線をその物に移した。そこには、メモ用の紙の束を押さえるように、一つの古いお手玉がポンと載せられていた。手垢《てあか》で黒ずんではいたが、作られた頃は鮮やかだったと思われる紅絹《もみ》のお手玉だった。
中年男の部屋に紅絹のお手玉という妙な組み合わせに、つい目を止めたのだが、それを見ていると、ふいに「懐かしい……」という感情がこみあげてきて、思わず手にとり、そう口に出してしまった。
日美香は思い出していた。
あのとき、聖二は、男の部屋に、そんな女子供が使うようなお手玉があることに少し照れたのか、「娘が遊んだものか、座敷に落ちていたので文鎮がわりに使っている。中に小豆が入っているので、重さがちょうどいい」などと弁解めいたことを言っていたのだが……。
「それは、母が作って、よく遊んでいたものだそうだ。あなたがそれを見て『懐かしい』と言ったとき、もしやと思った。でも、あのときは、今時あまりお目にかからなくなった古いものを見て懐かしがっただけかと思って、それ以上は聞かなかったのだが。そのお手玉に何か記憶がありますか……?」
そう言って、じっと息をつめて窺《うかが》うような表情で日美香を見た。
「あります。こうして触ったときの絹のすべらかな感触。こうして手で受け止めたときの中に入った小豆の重さ。覚えています。この感触を」
日美香は、熱に浮かされたようにそう言って、お手玉を手に取ると、それを宙に放り投げて受け止めた。
この感触に確かにおぼえがある。遠い昔、こうして繰り返し遊んだ記憶が……。
「小さい頃の記憶ではないと思います。人形遊びやままごとをした記憶ははっきりとありますが、お手玉をした記憶はありません。養母に買ってもらったおもちゃの中にお手玉はなかったし……。これは、ここに来て思い出した感触です」
そういうと、
「ちょっと待っててくれ」
この男にしては珍しく慌てたような口調でそういうと、いきなり座を立ち、書斎に隣接する和室の方に入って行った。奥で何かごそごそと探していたが、何やら手にして戻ってきた。
「これに見覚えはないか」
そう言って、差し出したのは、一体の古い人形だった。人形といっても、市販のものではなく、手作りらしかった。それもあまり器用な人が作ったものではないような、胴体に四本の手足、綿を詰めた顔らしき部分には、シャツか何かの黒いボタンが二つ、目のように縫い付けてあるだけの、恐ろしくシンプルな襤褸《ぼろ》人形だった。
布地が手垢で汚れ、ところどころ破けて中の綿がはみ出している。手にとって見てみると、ボタンの両目を止めている糸の色が左右で違う。おそらく、ボタンが取れるたびに繕い直したあとと思われた。その人形の汚れ具合と繕い具合から見て、それは、かなり長い年月、持ち主に愛されていたように思われた。
「……覚えています」
日美香は呻《うめ》くように言った。
その襤褸人形を見たとたん、何とも言えない、今までに味わったことのないような感情の炎に全身を包まれていた。
「これは……わたしが……わたしが作ったものです。あなたが二歳になったばかりのときに。お手玉のようにうまくは作れなくて、夜なべして、何度も何度も縫い直して」
日美香は、殆《ほとん》どうわ言のようにそう口走っていた。
口走りながら、わけもなく涙があふれてくる……。
まるで、それは、この一体の襤褸人形を見たとたん、今まで自分の中で眠っていた別の人格が突如目覚め、神日美香という人格を押しのけて出てきた。そんな感じだった。そして、その人格というのは、おそらく……。
泣いているのは自分なのか、その人なのか、それすらも分からないまま、ただ突然身内で吹き荒れる感情の嵐に弄《もてあそ》ばれながら、
「これをまだ持っていてくれたのですか。捨てもせず……。わたしはあなたを捨てるようにしてここを出て行ったというのに」
日美香、いや、日美香の中に突然目覚めた人格が叫ぶように言った。
「いいえ、捨てたんじゃない。決して捨てたんじゃない。あのときはああするしかなかったんです。若日女《わかひるめ》に選ばれた日登美を助けるためにはああするしか。本当はあなたも連れて行きたかった。でも、日子様であるあなたを、次代の宮司と定められていたあなたを連れて行くわけにはいかなかった。残して行くしかなかった。でも、あなたのことは片時も忘れたことはなかった。ずっと帰りたかった。この村にこの家に、あなたの所に……」
「僕だって」
こちらを凝視していた男の目からも一筋の涙が零《こぼ》れ落ちようとしていた。
「ずっと待っていたんだ。あなたがいつか帰ってくるのを。あの一の鳥居のところで、毎日毎日、暗くなるまで待っていたんだ……」
その目は、今まで養父と仰ぎ見てきた中年男の、時には冷酷に見えるほど世知|長《た》けて理性的な目ではなかった。
それはまるで……。
迷子になって途方に暮れていた子供が、ようやく迎えにきてくれた母親を見つけたような、そんな幼子の目をしていた。