一瞬、向き合った二人の間に奇妙な時間が流れた。
それまでの二人の立場が逆転してしまったかのような摩訶《まか》不思議な時間だった。
若干二十歳の娘が、二十八歳も年上の中年男を、まるで年端のいかない子供を見るような愛《いと》しげな目で見下ろしており、男の方は、そんな若い女を、まるで母でも見るように、無限の憧《あこが》れをこめて、仰ぎ見ていた。
「……間違いない。あなたは母の転生者だ」
そんな時間がしばし流れ、それでも、先に現実感覚を取り戻したのは、男の方だった。そう呟《つぶや》いた声にも目にも、もはや幼子のようなあどけない色はなかった。
「……わたし、今一体何を……」
いち早く現実に引き戻された相手につられたように、日美香も、はっと我にかえったように言った。
何をしゃべったのかは覚えていたが、それらの言葉を発したのが自分自身であるという実感が全くなかった。誰かがしゃべっているのを少し離れた所でボンヤリと聞いていた。そんな感覚しかない。
催眠術にでもかけられていて、それから覚めたような変な気分だった。
「今、自分が口にしたことを覚えていませんか……?」
聖二はやや不安そうに聞いた。
「いいえ。覚えてはいるのですが、なんだか、自分がしゃべったのではないような変な気持ちがして……」
日美香はうろたえながらそう答えるしかなかった。
「……日女にも転生の能力があったのか。おそらく、母は死病に罹《かか》り、いまわの際に、この村を捨てたことを心から後悔し、もう一度帰りたいと強く念じたのだろう。その強い念が、日子以外には難しいとされている転生の秘術を成功させたのです」
聖二はそう言い、
「そうか。これで、あなたがなぜ双子で生まれてきたのか分かった」
と何かひらめいたような顔で付け加えた。
「え……」
養父の口から双子の話が出たことに、日美香はぎょっとした。一瞬、まさか、郁馬が約束を破って、妹の事を話してしまったのではないかという疑いを抱いたのだ。
しかし、そのあと、聖二がどこか満足げな表情でこう続けたので、身構えるようにして聞いていた日美香は、ほっとして肩の力を抜いた。
「いまわの際に母の想いは真っ二つに引き裂かれたのかもしれない。このまま、倉橋徹三の元で幼い日登美の成長を見守りながら平凡に暮らしたいという想いと、故郷の村に帰り、再び日女としての使命を果たしたいという想いと。その二つに引き裂かれた念が、その後、日登美の体内に侵入したあとも続き、それが一つの受精卵を真っ二つに分裂させ、一卵性の双子という形態を形づくったのかもしれない。
そして、出生と同時に、あなたの方だけが生き残り、もう一方が死んでしまったということは、二つに引き裂かれた念のうち、この村に帰りたいという念の方がより強かったということに他ならない。
若日女に決まっていた赤ん坊を連れて逃げるなどという、日女にあるまじき大罪を犯した母でしたが、最期《さいご》には、やはり日女としての誇りと自覚を取り戻してくれたということでしょう」
違う。片割れの妹は死んではいない。生きている……。
日美香は心の中でそう呟いていた。
ということは、日女としてではなく、普通の平凡な女として生きたいと願った緋佐子の最期の想いは、決して弱かったわけではなく、今もなお生き続けているということだ。双子の妹の照屋火呂という女の形となって……。
やはり……。
わたしは日女としてこの村と共に生き、火呂はこの村とは全く無縁の生き方をする。
それがわたし自身、火呂自身、そして何よりも、一番祖母の心にもかなうことなのかもしれない。
そんなことを考えていると、
「そうだ。それともう一つ……」
聖二が言った。
「あなたが母の転生者だと分かったからには、あなたと武は異母姉弟《きようだい》ではなかったということになる。つまり、あなたの父親は兄ではない。この理屈がお解りですか?」
「え……」
耀子から聞いた転生の仕組みを思い出して、聖二の言わんとすることをなんとか理解しようと頭を働かせていると、
「なぜなら、あなたは母自身だからだ。母の再生した姿だからです。魂だけでなく肉体そのものも。母の魂魄《こんぱく》が日登美の体内の受精卵に侵入して転生を成功させた時点で、その受精卵が本来もっていた遺伝子情報は全て母の念によって書き換えられてしまったからです。書き換えられる前の受精卵の精子の主が誰かなどと詮索《せんさく》しても意味がない。それは兄であったかもしれないし、他の男だったかもしれない。理解できますか? 私の言わんとすることが?」
聖二はもどかしげに言った。
「……なんとなく」
「あなたの母親が、卵子の持ち主であり母体となった日登美であることは間違いないのだが、父親に関しては、誰かと探索すること自体が無意味なんだよ。どうしても詮索したければ、あなたの祖母の父親が誰であったかを探らなければならなくなる……」
「解ります」
「あなたがどことなく兄に似ているのは、兄の娘だからではなく、それは我々一族に共通して伝わる遺伝子のせいだったんだろう。血液型から矛盾がなかったのも単なる偶然にすぎなかったんだよ」
「それでは……わたしは武をもう異母弟《おとうと》と思わなくてもいいんですね」
「そうだ。異母弟じゃないんだから。しいていえば、彼は、あなたにとっては甥《おい》の息子ということになる。親戚《しんせき》であることに変わりはないが、異母弟というほど近いものではない。もう近親|相姦《そうかん》のタブーを犯すという心理的プレッシャーに悩む必要は全くないということです。それは、明日の夜の神事においても……」
聖二はそう言って、気のせいか、少し苦い表情をした。
「よく解りました……」
「ついでに言ってしまうと」
聖二は続けた。
「明治政府の『淫祠《いんし》』取り締まりの厳しい目を逃れ、こうした性儀式を伴う『神迎え神事』が廃《すた》れずに今日まで脈々と続けられてきたのは、実は、この転生の問題も大きくからんでいるのです。一年に一度必ず行われる儀式は、空をさ迷う先祖の魂魄に転生のチャンスを一度でも多く与えるためでもあるのだから。
いくら高度の能力をもっていても、受精したばかりの母体を提供されないことには、転生のしようがない。それが見つからない限りは、肉体を離れた魂魄は新たな住処《すみか》を見つけて何世代も空しくさ迷い続けるしかない。
それを避けるために、年に一度、決まった時期に決まった時間決まった場所で、日女に受精の機会を与えることで、空をさ迷う魂魄にも、定期的に転生の機会を与えてきたということなのです。
『神迎え神事』とは、何も知らないよそ者から見れば、何やら淫靡《いんび》で怪しげな儀式にしか見えないだろうが、この村にとっては、単なる風習ではなく、様々な意味できわめて理に適《かな》った、これからも絶やすことのできない重要な儀式なんだ……」
聖二はそうしめくくると、腕時計をちらと眺め、
「……さて。少し早いが今夜はこのへんにしておこうか。明日は早朝から何かと忙しいから。私も少し疲れた。あなたも今夜は早く休んだ方がいい」
そう言い、卓の上に散らばっていた数冊の古文書を集めはじめた。
「あの……あと一つだけうかがいたいことがあります」
傍らに置いておいた例のノートを胸に抱え、立ち上がりかけた日美香は思い出したように言った。
「この件については、祭りが終わった後にでも、またゆっくり。だから今夜はもう——」
「お養父《とう》さんも、ご自分の寿命を五十年と既に定めているのですか」
聖二の言葉を遮るようにして、日美香は真剣な表情で聞いた。
「……」
「さきほど、お印のある宮司は、自らの寿命を五十年と決めている。だから、五十歳以上生きた人がいないと……。お養父さんもそうなのですか。大御祖父様《おおおじいさま》のように、五十歳の誕生日を迎えた日に、まさか自死などという形で」
五十歳といったら、あと二年しか残されていないではないか。いくら転生に成功すれば来世に生きることができるとはいえ、現世での生はそこで確実に終わる。残された家族にとっては、その人の死以外のなにものでもない。
たとえ魂は生きていると言われても、肉体は荼毘《だび》に付され、骨しか残らない……。
「そんなの嫌です! やっとこうして会えたというのに。あと二年しか一緒にいられないなんて」
「そのことなら心配する必要はない。今のところ、私は、曾祖父のようなことは全く考えていないから」
聖二はそう言って笑った。
「でも……」
「五十年というのは、あくまでも曾祖父が生きていた時代の常識から割り出した数字なんだよ。あれから一世紀近くがたって、生活環境が当時とは全く違う。人間の寿命も大幅に伸びたし、もう『人間五十年』などという言葉が通用する時代ではない。
それに、私には、この現世で、やりたいことがまだまだある。兄が政権を取るのをこの目で確かめたいし、すべてを後二年足らずでやり遂げるのは不可能に近い。こんなにも現世に執着したまま、転生の術を試したとしても、おそらく失敗に終わるだろう。失敗すれば、ただの自殺と同じことになってしまう。そんな危険な賭《か》けをする気はないよ。
転生を成功させるには、一見矛盾するようだが、生への執着は強く持ちながら、現世への執着は捨てなければならない。母が転生に成功したのは、死病に罹り、たとえ現世に止まりたくても間近に死が迫っているという、いわば崖《がけ》っぷちの状態で、強く生を望んだからだろうし、曾祖父の場合は、生への執着はあっても、現世への執着はあまりなかったからだろう。やり残したと思うこともなく、後に残していく家族や友人への想いも薄かったに違いない。だからこそ、成功できたのだ。私は曾祖父とは違う。私が曾祖父のように髭《ひげ》をたくわえないのも、それを示すためだ。姿形は同じでも、たとえ記憶の一部がこの人の記憶で占められていようとも、私は私だ。曾祖父ではない。だから、曾祖父の生き方まで複写しようとは思わないよ」
聖二はそうきっぱり言い切った。