「……さん」
「郁馬……さん」
誰かが呼んでいる?
郁馬は暗闇の中ではっと目を覚ました。
智成か?
一瞬、同じ部屋で寝ている弟かと思ったが、そうではなかった。
うかがうと、弟は隣の布団で高いびきをかいている。
それに、弟なら「郁馬さん」などと名前では呼ばない。
夢……か。
と思いかけたとき、襖《ふすま》の戸が外から遠慮がちにトントンと叩《たた》かれ、「郁馬さん」と自分を呼ぶ声がはっきりと聞こえた。
夢じゃない。
誰かが部屋の外で呼んでいる。
眠気が完全に覚めた。
郁馬は半身を起こすと、手探りで枕元のスタンドをつけ、傍らにはずしておいた腕時計を見た。
午前三時を過ぎようとしていた。
誰だ、こんな時間に……。
「誰だ?」
眠っている弟を起こさないように、小声で言った。
「俺。武だよ……」
襖の向こうの声が応《こた》えた。
武?
こんな夜中に何の用だ?
郁馬は慌てて起き上がると、襖を開けた。
常夜灯が微《かす》かについた薄暗い廊下に、武がパジャマ姿のまま、うすら寒そうにして立っていた。
十一月の始めといえば、朝晩はかなり冷え込む。いつからそこにいたのか知らないが、火の気のない廊下に佇《たたず》んでいる武の顔は幽鬼のように青ざめていた。
「武……様?」
郁馬は深夜の突然の訪問者に驚いて言った。
「こんな時間にごめん。いろいろ考えていたら眠れなくなっちゃって。それで、郁馬さんに相談しようと思って……。ちょっといい?」
武は囁《ささや》くような声でそう言った。
「相談って、明日じゃ駄目なんですか」
郁馬も小声で聞いた。
こんな夜中に相談もないだろう。それに眠い。
「明日じゃ遅いんだよ」
遅い?
「でも、弟が帰ってきていて……」
郁馬は困惑したように言った。すると、武は、襖の陰から中をのぞき込むような仕草をした。
智成は熟睡しているらしく、相変わらずいびきをかいて起きる気配はない。
「だったら、俺の部屋に来てくれる? 二人きりで話したいんだ」
武はそう言った。
「それはいいですが……。起きて大丈夫なんですか」
廊下に出て、襖を後ろ手に閉めながら聞くと、
「うん。熱はもう下がったよ」
武はそう言って、やや寒そうに背中を丸めながら、廊下を先に立って歩いた。
郁馬は、寝ていたところを起こされた腹立たしさと、こんな夜中にしなくちゃならない相談って何だという好奇心の入り交じった複雑な表情で、武の後を無言でついていった。
「……明日の大祭って、中止できるようなものじゃないよね?」
武は自分の部屋に入るなり、声を潜めたまま、そう聞いた。
「それはもちろん……。七年に一度の大祭ですし、おまけに、兄の話では、今年の祭りは、例年になく重要なものだと……」
郁馬が、しかつめらしくそう答えると、
「だよなぁ。いまさら、あの役をおりるなんてことはできないんだよな」
武は布団の上にあぐらをかき、両手で髪を掻《か》き毟《むし》るような動作をした。
役をおりる?
役って、三人衆のことか。
何だ。
何があったんだ。
何かにひどく心乱されているらしい甥《おい》の姿を、郁馬はじっと見つめた。
「あんなこと聞いちゃって、俺、どうしていいか分からないんだ。このままあの役を続けていいのか。それとも、思い切って、役をおりると叔父さんに言った方がいいのか。でも、俺があの役をおりたら、そんな大事な祭りを中止することになってしまうだろうし……」
独り言のようにぶつぶつと言う。
「一体何があったんですか。もう少し分かるように話してくれないと、僕としても相談に乗りたくても乗りようがありませんよ」
苛《いら》つきながら、それでも口調だけは丁寧に言うと、
「ああ、そうだね。でも、どこから話していいのか……」
武は混乱したような顔で呟《つぶや》き、まさに思索する弥勒菩薩《みろくぼさつ》像のような格好で、しばらく黙りこくっていたが、ようやく意を決したように口を開いた。
「あのさ……」
しかし、そう言ったきり、まだためらうものがあるらしく、また黙りこんだ。
「何ですか」
郁馬は先を促した。
さっさと話せよ。
そう怒鳴りつけたい気分で一杯だった。
一日中ぐーたら寝ていたおまえと違って、こっちは祭りの準備やら何やらでこき使われて疲れているんだ。しかも明日は早いんだ。早く布団に戻りたいんだよ。
そう面と向かって言いたかった。
「その……『神迎え神事』ってのがあるだろう? 祭りの二日めの夜に……神妻役の日女《ひるめ》と……」
武は言いにくそうに口火を切った。
「それがどうかしたんですか」
「あれって……日女に酒を振るまってもらうだけじゃないの?」
「……」
「……違うの?」
「兄さんから何も聞いてないんですか」
郁馬は呆《あき》れたように聞いた。
なんだ。こいつ、何をこの期《ご》に及んで寝とぼけたようなことを。それだけのはずがないじゃないか。
「叔父さんから聞いたのは、家々を回った後、社に戻ると、そこで日女が待っていて、お役目ご苦労様というねぎらいの酒をついでくれるから、それを呑《の》めばいいってだけ。なんかその後作法みたいなことが少しあるらしいけど、それは日女の言う通りにすればいいから大したことないって。それでおまえの役割は終わりだからって」
「……」
郁馬はあぜんとしていた。
どうやら何も知らされてないらしい。
兄はあえて武には何も教えなかったのか。下手にすべて教えて、事前に降りられたら困るとでも思ったのだろうか。
大したことないって……。
おおいに大したことあるじゃないか。
もっとも、若い男なら決して嫌がるような役割ではないが。
「でも、さっきおば……いや、その、聞いた話だと、それだけじゃないって……本当なの?」
「一体、その話とやらをどなたから聞いたんですか」
次兄でないことは確かだなと思いながら、郁馬が聞くと、
「それは言えない。その人から聞いたとは誰にも言わないと約束したから……」
武はそう言って、その人物から聞いた話というのを、口ごもりながらも話しはじめた。
それを聞いているうちに、最初は仏頂面だった郁馬の表情がだんだんと変わってきた。
そして、武の話をすべて聞き終わる頃には、その目には、獲物を見つけた肉食獣のような暗い輝きが宿っていた。