十一月四日の朝。
朝食を済ませると、鏑木浩一は、寺から自転車を借りて、白玉温泉館に向かった。
村に数ある外湯の中でも一番大きなこの温泉館が村民の社交場のようになっていることは喜屋武蛍子から聞いていた。
それで、温泉に浸《つ》かりがてら、たむろしている湯治客から耳寄りな情報を得るのが目的だったが、目当てはもう一つあった。
この温泉館に設置されているはずの公衆電話を使って、東京にいる或《あ》る人物と連絡を取るためである。携帯電話はもっていたが、危惧《きぐ》していた通り、ここは圏外になってしまって使えなかった。
日の本寺にも、宿泊客用にか赤電話が一台設置されていたが、あそこでは住職や寺関係者に話を聞かれる恐れがある。
白玉温泉館についてみると、祭り期間のせいもあってか、湯治客の数もまばらで、広い休憩場には常連風の老人が三人ほどくつろいでいるだけだった。
鏑木は風呂《ふろ》に入る前に、休憩場の隅に設置されていたピンク電話のところまで行くと、小銭を数枚放りこんでから、受話器を取り上げ、その人物の携帯の番号をプッシュした。
幸い、ピンク電話の近くには人影はなかった。これなら、さほど声を潜めることもなく普通に話ができそうだ。
かけた先は、大学時代の後輩の高野という男の携帯だった。
高野は今は某テレビ局でアシスタントディレクターの仕事をしている。
「……もしもし」
呼び出し音が数回鳴って、ようやく眠そうな男の声が出た。高野だった。
「高野? 俺」
「ああ、先輩……」
「なんだ。まだ寝てたのか」
「昨日、飲み過ぎちゃって。頭いてえ……」
「例の件だけどな、人、集まったか」
「えーと、ガタイの良い若い男で、腕に覚えのある猛者《もさ》を数人集めろってことでしたよね?」
「そうだ」
「二人確保しました。一人は空手の有段者で、もう一人は相撲やってた奴です」
「相撲? ただのデブじゃないだろうな」
「むろんデブですけど、学生横綱にもなったことがあるとかで。ガタイが良いっていったら、やっぱ、相撲でしょ」
「ん……まあいいか」
「もっと集めますか」
「二人か。いいよ、それで。おまえも来れるんだよな?」
「ええまあ。えーと、明日の午後にはそちらに着いてればいいんでしたよね」
「それがな、ちと予定が狂ってな、一日延期になったみたいなんだ。ま、来るのは予定どおりでいいけど、一日、滞在が伸びることになるんだが……大丈夫か?」
「俺は大丈夫っすよ。バイトの方も、どうせ空手はまだ学生で、ドスコイも今はフリーターとかいってましたから、一日くらいずれこんでもなんとかなるっしょ」
「そうか。じゃ、頼む。寺には俺の方から予約いれとくから」
「あ、ちょっと、先輩。もう一度確認しときますが、往復のガソリン代とか宿泊費とか、かかった費用は全部先輩もちですよね?」
「ああ。ただし、三人で相部屋だぞ」
「げっ。野郎三人で? 勘弁してくださいよ。一人はドスコイですよ? あんな暑苦しいのと一緒なんて。せめて、二部屋とってください。ドスコイと空手はまとめて布団部屋に押し込んでもいいから、俺専用のを……」
「贅沢《ぜいたく》いうな。そのかわり、温泉には好きなだけ入れるし、寺の料理はなかなかだ。特に蕎麦《そば》がうまい」
「寺の料理なんて、おからとか菜っ葉とか、鶏の餌みたいなしょぼいもんばっかじゃないんですかぁ」
「喜べ。それが違うんだ。ふだんはそうなんだが、祭りの期間だけは、寺でも生臭解禁だとよ。酒も出るし。昨夜は猪鍋《ししなべ》だった。うまかった。鶏の餌どころか、鶏がまるごと出るかもな」
「へえ……でも、一体、何なんですか。温泉に浸かってうまいもの食いながらできる簡単なバイトって……?」
「だから、来れば分かるって。こっちに着いたら、ゆっくり説明してやるよ」
「うーん。なんか怪しいなぁ。やばいことじゃないでしょうね? 腕に覚えのある猛者揃えろなんていうところを見ると……。危険はないんですか」
「多少のリスクはあるかもな……」
「えーっ。暴力|沙汰《ざた》はごめんですよ。リスクってどの程度の?」
「心配するな。運が悪ければ、かすり傷くらいは負うかなー? って程度だよ。それも最悪の場合だ。まあ、相手は女みたいな生っ白いひょろひょろ神官ばかりだし」
「しんかん? しんかんって何です?」
「だから、来れば分かるって」
「ことによったら、凄《すご》いスクープ映像が撮れるかもしれないって、マジっすか?」
「おお。あんな凄い映像とれたら、おまえも一躍万年ADからディレクター様に昇進間違いなしってやつだぞ」
「だったら、多少のリスクはしょうがないか」
「そうだよ。口開けてるだけでぼたもちが転がり落ちてくるほど世の中甘くはないからな。何事もハイリスクハイリターンだ」
「……」
「しかも、場合によっては、警視総監賞ものの人命救助になるかもな。世のため人のためにもなる」
「世のため人のためって……。言っときますが、スクープ映像はほしいけど、自分の命かけてまで人命救助なんかする気ないっすからね、俺」
「大丈夫。万が一、乱闘になっても、空手とドスコイがいれば十分だ。ひょろひょろ神官なんか底無し沼にたたきこんでやればいい」
「ら、らんとう? そこなしぬまぁ?」
受話器の向こうから高野の悲鳴に近い声が聞こえてきたが、
「おっと、もう小銭がない。ここのボロ電話、カードが使えないんだ。詳しいことはこっちに来てから話す。じゃな、待ってるぞ」
鏑木はそう言うなり、そそくさと電話を切った。
あたりを見回してみたが、休憩場にいた老人たちは、それぞれテレビに見入ったり、マッサージ器にかかったりしていて、鏑木の方に注意を向ける者など一人もいなかった。