その夜。
神日美香は独りで機織り小屋にいた。
社の隅に建てられた小屋である。機織り小屋といっても、機織り機が置いてあるわけではない。大昔は置いてあったらしいが、今は影も形もない。
小屋の周囲には、御幣を付けたしめ縄が張り巡らされ、そこが神聖な場所であることを誇示してはいたが、一歩中にはいると、神官たちが休めるような、ちょっとした休憩所風の作りになっていた。
それでも「機織り小屋」と呼ぶのは、昔、山より降りてきた大神を、神妻たる日女《ひるめ》がここで「神御衣《かんみぞ》」を織りながら待ち受けていて、織り上がった新しい衣を神に着せたという伝承ゆえである。
巫女《みこ》が訪れてきた神に新しい衣を織って与えるのは、いわば「脱皮」の儀式である。神はそれまで身につけていた古い衣を脱ぎ、新しい衣を身につけることで新たな力を得ると考えられたのである。
この「神御衣」というのが、今では、蓑《みの》と笠《かさ》を代用している。秋田の奇祭「なまはげ」神事で、家々を回る鬼役の「なまはげ」が蓑笠を身につけているのは、単に寒冷地方の防寒具というだけではなく、「神」であることの印でもあるという。
所々|漆喰《しつくい》の剥《は》げかけた土壁には、二組の真新しい蓑笠が掛けられていた。今年は使われなかった「三人衆」用のものだった。この蓑笠も毎年新しく作り直されている。
もうすぐ、村の家々をすべて回り終えた武がここに戻ってくれば、三組めの蓑笠も揃うはずだった。
日美香は、酒の準備をして、それを今か今かと待っていた。
白衣に濃紫の袴《はかま》をつけ、一つに結んだ黒髪を背中にたらし、こうして小屋の中に独りでいても、不思議に心は落ち着いていた。はじめての体験だというのに、さほど不安も緊張感もなかった。
はじめてではない。前にもこのようなことをしたことがある。そんな記憶に助けられていたからだ。
おそらく、それは祖母の記憶なのだろう。
この村に来てから、日ごとに覚醒《かくせい》しつつある緋佐子の記憶は、自分が祖母の転生者であることを悟り、その存在を意識するようになってから、より鮮明になりつつあった。
今までは、ただぼんやりとした懐かしさとか既視感としてしか感じられなかったことが、明らかな記憶として感じられるようになっていた。
この小屋の記憶もあった。
ここでこうして、「大神」役の青年たちが戻ってくるのを待っていたことがあるという遥《はる》か昔の記憶が……。
それは、今の自分がまだ二十歳の処女《おとめ》であるにもかかわらず、まるで老女が若い頃のことを思い出すような、なんとも奇妙な感覚だった。
膝《ひざ》元には、神酒を満たしたばかりの古い瓶《かめ》がある。神酒は、古くは「みわ」と呼ばれ、神家の姓の由来にもなったものだが、祭りのときには、甕《みか》と呼ばれる瓶に入れられ、その瓶ごと地に掘り据えられ、年に一度訪れてくる神に捧《ささ》げられたという。
今では、地に掘り据えられることはないが、この古式を踏まえ、「大神」役の青年たちにふるまわれる酒も、今風のとっくりなどではなく、古い瓶に入れられているのである。
そして、昔は、この神酒を入れる神聖な甕に、小蛇を入れ、蛇神を育てる容器としても使われたのだという……。
目の前にある古い瓶をぼんやりと見つめながら、前に聖二から聞いた話を思い出していた。
小蛇を育てて蛇神にする。
つまり、神妻たる日女とは、蛇神の妻である前に母でもあるということなのか。ということは……。
ふと頭にひらめいたことがあった。
この瓶は、ひょっとしたら、巫女たちの「子宮」の象徴なのではないか。
母が自らの子宮の中で胎児を月満つるまで育てるように、この甕に小蛇を入れて蛇神となるまで育てるのだから……。
そして、この場合、「小蛇」というのは、精子を象徴しているのかもしれない。外から訪れてきた精子を子宮の中に迎え入れ、やがてそれが卵子と結合して受精卵となり、それを子宮に着床させて胎児となるまで育てる……。
この「蛇を甕に入れて育てる」という不可解な古代の習慣というか儀式は、一つの生命が誕生するまでの神秘を、身近なものを使って古代人なりにシンボリックに表現したものだったのではないだろうか。
それは暇つぶしの思いつきにすぎなかったが、目の前の酒を満たした瓶をじっと見ていると、まるで自分の子宮にも酒を満たされたような気がしてきて、何やら、お腹のあたりが、酩酊《めいてい》感を伴って、微《かす》かに熱くなってくるのを感じた。
そのとき、日美香は、はじめて自分がまぎれもなく女であって、子宮という「甕」を体内にもった生き物であることをはっきりと自覚した。
しかも、偶然とはいえ、その「甕」を名前の一部にももっている……。
それは、自分の中に眠っていた母性を自覚した瞬間でもあった。
東京で暮らしていた頃、特に養母が生きていた頃は、自分が女であると特に感じることは滅多になかった。何かそう感じることに生々しいいやらしさのようなものを覚えて、あえてそう思わないようにしてきたところもある。
でも、養母の死をきっかけに、この村の存在を知ることになり、ここに来てからは、それまであえて封印してきたこの母性的としかいいようのない感覚が日ごとに強くなっている気がする……。
最初は、こうした母性の目覚めは、二歳年下の異母弟《おとうと》の存在を知ったせいだと思っていたが、果たしてそうなのだろうか。
武が異母弟ではないと分かった今も、この感覚は消えない。それどころか、前よりも強くなっている。今では、この体内で実際に胎児を育て生んだことがあるような感じさえするようになった。妊娠どころか、それに至る行為すらしたこともないというのに。
これは……。
祖母の記憶によるものではないか。緋佐子は、日美香くらいのときにはもう二人の子供の母親になっていた。この小さなものを守り育てたいという母性的な感覚は、祖母の記憶によるものではないのか。
とすれば、自分が守り育てたいと思っている対象というのは、ひょっとしたら、異母弟だと思い込んでいた武ではなく……。
あることに気づきそうになっていたとき、表の方でガタと物音がした。
武が戻ってきたのだろうか。
さすがに全身に緊張感が走った。
やや身構えるようにして、音のした方をじっと見ていると、やがて、少し建て付けの悪い小屋の戸を開けて、一人の人物が入ってきた。