その頃、新庄武は、神家の広大な敷地の北端を占める物置小屋の中に潜んでいた。
自分が割った薪《まき》の山に囲まれ、積み上げられた藁《わら》の上に仰向きで寝そべり、太い梁《はり》をめぐらせた高い天井を見上げているその両目からは、拭《ぬぐ》っても拭っても、いっこうに止まらない涙がこぼれ落ちていた。
なんでこんなに後から後から、涙が滝のようにあふれ出てくるのか分からない。
信頼していた叔父に裏切られたという悔しさからなのか、好きになりかけていた女が異母姉《あね》だと知ってしまった悲しさからなのか、それとも、最後までやり通そうと思っていた大役を途中で放棄して、宿なしの野良猫みたいに人目を避けてこんな所に隠れている自分が情けないのか……。
理由も分からないままに、小さな子供のように声を殺して泣きじゃくり続けていた。
それでも、やがて、身体中の水分が全て涙となって流れ尽くしてしまったのではないかと思われるほどの時が過ぎた頃、武はようやく泣き止んだ。
時計がないので、どのくらいの時間がたったのかはさっぱり分からなかった。
ここで落ち合って、身に着けていた蛇面と蓑笠を渡したあと、郁馬は、事が終わったら、もう一度ここに戻ってくると言った。
あれから少なくとも一時間以上は軽く過ぎているような気がした。
ということは……。
日美香には、二人がこっそり交替したことがばれなかったということか。
もし、交替がばれてしまったら、機織り小屋を叩《たた》き出されて、郁馬はもっと早くここに戻ってくるだろう。
それがまだ戻ってこないということは、何も露見せずに、順調に事が進んでいるということの証《あか》しなのか。
それを喜ぶべきか悲しむべきか。
複雑な心境だった。
心のどこかで、自分たちの企みがすぐにばれて、郁馬が何もせずに叩き出されてくればいいと願う気持ちもあった。
でも、郁馬は戻らず、刻一刻と時だけが無情に過ぎていく。それを、ここでじっと隠れて待っているのは、見えない時計の秒針で身体を切り刻まれるような痛みを伴っていた。
こんな思いをするくらいなら、あんなことを郁馬に頼むんじゃなかった。家々を回ったあと、機織り小屋には戻らず、役を放棄することもできたはずだ。
郁馬にあんなことを頼んだのは、叔父とぐるになって自分には何も知らせずに事を進めようとした日美香への軽い復讐《ふくしゆう》心からだった。人を子供扱いして手玉に取ったつもりかもしれないが、そう簡単には操られないぞ。神事の相手が蛇面を脱いだとき、俺じゃなかったことを知って驚くなよ……とでもいうような。
でも、そんな復讐心から出た企みも、結局、それは鏡に反射するようにすべて我が身にはねかえってきて、自分自身が苦しむものでしかなかった。
明日……。
もはや涙も涸《か》れ果てた乾いた虚《うつ》ろな目で天井を見上げながら、次第に身体の奥底からこみあげてきた怒りの感情に身をまかせながら、武は心に誓った。
この村を出よう。
朝一番のバスで。
叔父が止めようが誰が止めようが、それを振り切って。
東京の家に比べるとずっと居心地が良かった。ようやく自分の居場所を見つけたと思っていた。祭りが終わったあとも、ここに居るつもりだった。少なくとも、来年の正月が過ぎるまで。
でも、もうそんな気はなくなった。
それに……。
この村はなんだかおかしい。何かが狂っている。居心地は良いが、その居心地の良さには、何か恐ろしいものが潜んでいる。
そんな気がしてならない。
叔父にしても……。
東京にいる頃は叔父が好きだった。たまにしか会えなかったが、会うのをいつも楽しみにしていた。でも、ここに来て、今まで知らなかった叔父の素顔というか裏の顔を見てしまったような気がする。
あの顔はなんだか好きになれない……。
ここは出た方がいい。
よくわからないが、とにかく早く出た方がいい。
武の中でそんな警戒警報のようなものが鳴りはじめていた。
明日、東京に帰ろう。
そして、もう二度とここには来ない。
そう決心すると、ようやく、藁床から起き上がる気力が沸いてきた。