十一月五日の朝だった。
日美香が身支度を整えて、神家の座敷に入っていくと、そこには既に朝食の膳《ぜん》が並べられていた。
いつもの顔触れはほぼ揃っていたが、二膳分だけ主の姿が見えない。
武と郁馬だった。
朝食がはじまっても、いっこうに、この二人が座敷に入ってくる気配はなかった。
「武と郁馬はどうした?」
お櫃《ひつ》のお代わりを運んできた妻の美奈代に、聖二がけげんそうな顔でたずねた。
「郁馬兄さんなら、今朝は食べたくないそうです」
すぐにそう答えたのは、郁馬と部屋を共有している末弟の智成だった。
「具合でも悪いのか」
聖二はやや心配そうに聞いた。
「具合が悪いというか」
智成はごはんをかきこみながら言った。
「昨日の夜からえらくふさぎこんでいるんです。話しかけてもぜんぜん口きいてくれないし。おとといの夜の宴会では大はしゃぎだったのに。何かあったのかなぁ。今朝も食欲ないからって部屋に閉じこもっています」
「郁馬は最近、どうも情緒不安定というか……」
耀子も心配そうに呟《つぶや》く。
「武は?」
聖二は妻の方を見ながら聞いた。
「さあ。まだお休みになっているのかも……。起こしてまいりましょうか」
美奈代はそう言うと、もっていたお櫃を義妹の一人に託し、そそくさと座敷を出て行った。
しばらくして、廊下を小走りに走る音が聞こえたかと思うと、慌てふためいた様子で美奈代が戻ってきて、
「あ、あなた。大変です。武さんが突然帰ると言い出して、今、玄関の方へ——」
と告げた。
「帰る? 帰るってどこへ?」
聖二は箸《はし》を置くと、びっくりしたように聞き返した。
「東京へだそうです。いらした時の服装に着替えて、ボストンバッグも持って。お止めしたんですが、全く耳を貸してくれません」
「何を馬鹿な……」
聖二は血相を変えてそう呟くと、目の前の膳を蹴倒《けたお》すような勢いで立ち上がり、座敷を出て行った。
日美香もすぐに箸を置くと、聖二の後を追った。
玄関まで行くと、そこには武がいた。
美奈代が言った通り、来たときに着ていた革ジャンにジーンズという格好で、上がり框《がまち》のところに腰をおろし、スニーカーの紐《ひも》を結んでいた。傍らには、来るときに持っていたボストンバッグが置いてある。
「武。何やってるんだ」
聖二が一喝《いつかつ》した。
「見りゃわかるだろ。帰るんだよ」
武は振り返りもせずに言い返した。
「まだ祭りの最中だぞ」
聖二がそう言っても、
「知ったことじゃないね。それに、俺の役は昨日で終わったんでしょ。だったら、もう用無しのはずだ。帰ってもいいじゃないか」
靴の紐を結び終わると、立ち上がりながら、くるりとこちらを向いた両目には、今まで叔父にはあまり見せたことがなかった反抗的な色が宿っていた。
「急にどうした? 来年の正月すぎまではここにいるんじゃなかったのか」
聖二はとまどったように聞いた。
「そのつもりだったけど、やめた。俺、やっぱ、田舎って性に合わねえ。もうこんな生活飽き飽きした」
「だが、今、帰ることは許さん。おまえの役は終わっても、祭りは終わっていない。今年は大祭だ。まだ『一夜日女《ひとよひるめ》の神事』が残っている。それが恙無《つつがな》く終了するまでは、おまえをこの村から出すわけにはいかん」
聖二は厳然と言い放った。
「なんでよ? 俺には関係ないじゃん。そのヒトヨなんとかって」
「関係は大いにある。今、おまえの身体には大神の御霊《みたま》が宿ったままだ。まだ御霊が取り憑《つ》いている。最後まできちんと祭り上げて、おまえの身体におりた御霊を御山に戻さなければならない。それをせずに、村から一歩でも出れば、おまえに取り憑いた大神の御霊をも解放してしまうことになる。そんなことをしたら、外界は大変なことになる」
「なんだよ、大変なことって……」
「前にも話しただろう? ここの大神は強大な力をもつ祟《たた》り神だと。その昔、大いなる恨みを呑《の》んで死んだ物部《もののべ》の神だと」
「ああ。ニギなんとかといって、古事記とかでは、大和の最初の支配者で、後からきた神武《じんむ》天皇に快く国譲りしたように書かれているけど、本当は、神武に攻め殺されたとかいう……?」
武は気のない顔で思い出すように言った。
「そうだ。それゆえに、この神は今でも外界に計り知れない深い恨みを抱いている。しかも、この物部の祖神だけじゃない。恨みを呑んで死んだ祖先の御霊は他にもある。この村を創り、日の本神社を創建した、物部守屋の遺児、弟君だ。ニギハヤヒの末裔《まつえい》にあたる弟君の御霊もここに合祀《ごうし》されている。大和での蘇我氏との権力闘争に破れ、憤死した物部守屋の遺児の……。
ここに祀《まつ》られた大神は二重の意味で外の世界に深い恨みを抱いているんだ。外の世界、とりわけ、政治の中枢である首都部には。その恨みゆえにしばしば祟りをなす。それを我々直系の子孫が、二重三重に結界を張って、大神の御霊を御山に封じ込めてきたのだ。そして、その御霊を解放するのは、年に一度の祭りのときだけだ。解放するといっても、御山からおろした御霊を村の中だけに封じ込めて、決して外には出さない。もし、御霊を外界に出したら、この神が暴れて、地震、台風、水害、火山の噴火という、あらゆる災害が一挙にして起こりかねないからだ」
「つまり、こういうこと?」
武はどこか面白がるような顔で言った。
「神とはいっても、ここの大神って、凶悪な囚人みたいなもんなんだね。たとえば、終身刑を言い渡されたような」
「……」
「で、いつもは物凄《ものすご》く警備の厳重な独房に閉じ込められているんだけど、年に一度だけ、独房から解放されるわけだ。といっても、自由に出歩けるのは塀の中だけで、塀の外には一歩も出られない。だって、凶悪この上ない囚人だから、塀の外になんか出したら、どんな暴れ方をするか分からないもんな。つまり、この村は網走《あばしり》刑務所みたいなもんか」
「……あまり感心しない譬《たと》えだが、まあ、そういうことだ」
聖二は渋々そう答えた。
「面白れーじゃん」
武は嘲《あざけ》るように笑った。
「面白い?」
「超面白れー。一度出してみようよ。この凶悪な囚人を、塀の外にさ」
「武……」
「どんな風に暴れてくれるのか見てみたいね。ゴジラ並に国会議事堂とかぶっとばして暴れまくるのかな」
「ふざけるな」
「ふざけてないよ」
武は笑いをおさめ真顔になると、自分を睨《にら》みつけている叔父の顔を真っ向から睨み返した。
「まじで、一度試してみたらいいじゃん。大神の御霊とやらが、この村を出たら、本当に暴れまくるのかどうか。この平成の世に、祟り神なんてものが本当に存在するのかどうかさ」
「……」
「どうせ、今まで、大神役をやった奴の中で、そんなことを試すほど勇気のある奴なんていなかったんだろ。だから、こんな馬鹿げた時代錯誤の迷信が千年以上もこの村の連中に信じられてきたんだよね」
「武、いいかげんにしろ……」
「ねえねえ、もしかして、これって、カルトとか言うんじゃないの。無知|蒙昧《もうまい》で閉鎖的な村民を洗脳して信じ込ませて。神家って、そんなインチキをして千年以上もこの村に君臨してきたの? そこにいる連中も信じてるのか、叔父さんが今言ったようなことを。こんな非科学的な与太話を?」
武は、玄関の広い三和土《たたき》に仁王立ちになって、聖二の背後に、騒ぎを聞き付けて集まってきた神家の者たちをねめまわしながら大声で言い放った。
家人たちは皆一様に、武の勢いに呑まれたように声もなく立ちすくみ、小さな子供たちはかたまって、不安そうな顔で一様に首をすくめている。
武の口調はふざけていたが、その目は挑戦的にらんらんと輝き、その顔は真剣そのものだった。
「いいか、よく聞け。これから俺が身体を張ってそれを試してやる。大神の御霊とやらをしょいこんだまま、この村を出てやる。もし、俺がこのままここを出たら、外の世界は大変なことになるらしい。一体何が起こるのかな。大神引き連れて東京まで戻ったら、大地震か何かがたちまち起きて首都壊滅かな? それとも、もっと大掛かりにみんなまとめて日本沈没、てか?」
「いいかげんにしなさい」
日美香もたまりかねたように怒鳴りつけた。
「いいかげんにしろ? 嫌だね。いいかげんになんかできないね。今まで、いいかげんに放置してきたから、千年以上もこんな迷信を信じこまされてきたんだろ、ここの純朴なる村民は。だったら、ここで白黒つけてやる。これから、大神の祟りとやらが存在するかどうか徹底的に検証してやろうじゃないか」
聖二をぐっと見返していた目を日美香の方に移して、武はそんなことを言うと、上がり框に置いたボストンバッグを取り上げた。
「俺がここを出ても、何も起きないことを祈るんだな。もっとも、何も起きないとなると、それはそれで、神家としては困るだろうけどな。何も起きなければ、大神の祟りなんてもんはこの世に存在しないことがばれちゃって、いもしない祟り神とやらを祭るために千年以上も間抜けな祭りを物々しく続けてきた神家の存在意義も権威もがた落ちだろうからな……」
武はそう言って笑うと、ボストンバッグをさげ、勢いよく玄関の戸を開けた。