聖二の部屋を出た足で、日美香は、今度は武の部屋に向かった。
戸口を軽くノックしてから中に入ってみると、武は、机を兼ねた座卓の前にあぐらをかき、参考書と問題集を広げて、受験勉強らしきことをしていた。
「勉強してたの?」
日美香はちょっと驚いたように言った。
脱走に失敗したあと、やけ食いでもするように朝食をたらふくとって部屋に引き上げたので、おおかた、食後のふて寝でもしているのだろうと思っていたのだ。
「勉強してたのって……」
武は筆記具をもったまま、ひょいと顔を上げて言った。
「びっくりしたように聞くなよ。そもそも俺がこの村に来たのは、静かな環境で受験勉強するためだぜ。そのことをお忘れですか?」
「……」
「忘れてるなら思い出してくれよ。ついでに、あなたがうちの親に高給で雇われた俺の家庭教師だってことも」
「忘れてはいないわよ。でも、祭りの間は、そのことは……」
座卓の前に座りながら言うと、
「俺にとって祭りはもう終わった。だから、一足早くいつもの日常に戻っただけさ。どうせ、ほかにすることもないし」
「ちょっと話してもいい?」
そう聞くと、
「なんだよ」
武はもっていた筆記具を放り出すように卓に置いた。
「昨日のこと」
「……」
「あなたに何も知らせずに事を勝手に進めようとしたことは悪かったと思ってるわ。そのことは謝ります」
「いいよ、もう。済んだことだし」
武はふてくされたように言った。
「一つ聞いていい?」
「なんだよ」
「わたしが異母姉《あね》だということや、あの神事の詳しい内容のこと、一体誰から聞いたの?」
「……」
「この家の人なんでしょう?」
「ノーコメント。その人から聞いたとは絶対に言わないって約束したから」
「もしかして、美奈代さん?」
「……」
武は答えなかった。が、微妙な表情の変化で、自分の憶測が図星だったことを日美香は確信した。
「やっぱり美奈代さんなのね。彼女の話してくれたことを全部信じたの?」
「……」
「あれ、違うのよ」
「違うって?」
「わたしがあなたの異母姉だってこと」
「二十年前の大祭で、俺の親父が本当はやってはいけない大神役をこっそりやっていたことも、あのときの三人衆の中で、血液型から考えて、あんたの父親の可能性があるのは親父だけだってことも本当なんだろ? だったら……」
「ええ、本当よ。つい最近まで、わたしもそう思い込んでいた……。でも、違うの。あることを知って、そうじゃないってことが分かったのよ」
「なんだよ、あることって……?」
「わたしは転生者なのよ」
日美香はいきなり言った。
「は?」
「転生者。過去に生きていたある人物の生まれ変わり。あるいはその人物の一種のクローンと言ってもいいわ」
「……」
武のキツネにつままれたような顔つきを見て、彼がこの能力についてはまだ何も知らないらしいことを察した日美香は、物部のもつこの特殊能力について、知り得たことを詳しく説明した。
「……つまり、わたしは、祖母の転生者だと分かったの。ほら、この部屋にあった古いアルバムの写真のことをおぼえている?」
「……」
武はこれまでの話を理解したのかしないのか、腕組みしたまま、いまだにキツネにつままれたような顔で黙っていた。
「あなたのお父さんの子供の頃の古い写真。あそこに、わたしによく似た巫女《みこ》姿の若い女性が写っていたでしょう? あの人なのよ。あの人の生まれ変わった姿がわたしなのよ。さっき説明したように、転生者というのは、いわばクローンなの。前世の自分とすべて同じ遺伝子をもっているの。だから、解るでしょう? わたしの父親はあなたのお父さんではないという理屈が。あなたのお父さんは、わたしにとっては甥《おい》にあたり、あなたは、わたしにとっては甥の息子に過ぎないのよ」
「……」
「わたしの言うこと解らない? 理解できない?」
日美香が不安そうに聞くと、
「転生とやらの仕組みについては理解したよ。ただ、理解したことをそのまま信じるかと聞かれたらノーとしか答えようがないな」
武は憮然《ぶぜん》とした表情でそう答えた。
「あなたがすぐに信じられないというのは無理もないわ。わたしだって、話を聞かされただけなら、まず信じないでしょうからね。でも、これは本当のことなの。冗談でもフィクションでもない。わたしには、現実に、祖母の記憶があるのよ。いいえ、祖母だけじゃない。もっと古いもっと遠い時代に生きていた人の記憶も微《かす》かに……」
「待てよ。てことは、叔父さんもその転生者とやらなのか? あなたの話だと……」
武は思いついたように言った。
「そうよ。お養父さんも曾祖父《そうそふ》にあたる人の転生者なの。あなたも見たでしょう。お養父さんの部屋に飾ってあった古い油絵。あの絵に描かれた口髭《くちひげ》の男。あれがお養父さんの曾祖父に当たる人」
「あれ、叔父さんの肖像じゃなかったのか」
武は愕然《がくぜん》としたように呟《つぶや》いた。
「違うわ。というか、前世でのお養父さんの姿と言うべきかしらね」
「髭なんかあったから変だとは思っていたんだけど……」
武は呟いて、しばし頭を整理するように考えこんでいたが、
「俺からも一つ聞いていい?」
そう言った。
「なに?」
「叔父さんはあなたと俺を結婚させる……というか、俺を婿養子として迎えるつもりだというのは本当? 色々なとこからそんな噂が耳に入ってくるんだけど。これって、ただの噂にすぎないのかな? それとも……」
「お養父さんはそのおつもりよ。いずれ、折りをみて、正式にその話があるかもしれないけれど」
「だったら、今この場で、ハッキリ返事させて貰《もら》うワ」
武は日美香の顔をまっすぐ見て言った。
「俺、その気、ないよ」
「……」
「この家に婿養子に来る気なんて金輪際ない。たとえ、それが今すぐって話じゃなくて、近い将来って話だったとしても、俺の返事は変わらない」
「そう……」
「でも、誤解しないでよ。あなたのことが嫌いだって言ってるんじゃないんだ。この家に婿養子に来るという形態が嫌なんだ」
「そんなにこの家が嫌いだったの? わたしはてっきり、あなたはこの村もこの家も好きになってくれたとばかり思っていたわ。だって、ここに来てから、とても居心地が良さそうに見えたもの」
「居心地は良かったよ。東京の家よりずっと居心地は良かった。新庄家にいるときは、俺なんか、親父や兄貴のオマケみたいな扱いだったし、親戚《しんせき》の爺婆《じいばあ》どもからは名家の面汚しみたいに言われてたからね。それがここに来てからは、大逆転もいいとこでさ、お印が出た日子《ひこ》様だとか言われて、こっちがびびるくらいに様付けで大切にされて……。正直、悪い気はしなかったさ。自分がえらくなったような気がして居心地は良かったさ。一生ここにいる気はないけど、まあ、根城の一つとして確保しておいてもいいかなって思うくらいに、ここが気に入った。でも……」
武はそう言って顔を曇らせた。
「最近、この居心地の良さがなんだか急に怖くなってきたんだ……」
「怖い? 飽きたのではなくて?」
「うん。飽きたんじゃない。今朝は、こんな田舎生活に飽き飽きしたなんて言ったけど、本当はそうじゃない。飽きたんじゃなくて、怖くなってきたんだ。この居心地の良すぎる家と村が……。
なんかこう母親の胎内に入って丸まっているようなキモチ良さがここにはあるんだ。何かに強く守られて、何にも傷つけられずに生きていられる。だけど、ここにいることがこんなに心地良いってことは、裏をかえすと、ここを出たら、すごく生きにくいってことでもあるんだよな……?」
「……」
「つまりさ。これってもろカルトじゃん。ここにいたら凄《すご》く心地良くて自分らしくしていられるような気がするけど、一歩でも外に出たら、自分を傷つけ否定するようなありとあらゆる不快で危険な事が待ち受けている。ここの生活に慣れてしまったら、そんな外の世界ではもう生きていけなくなる。安全で心地良い場所にずっと居たくなる。
赤ん坊が生まれるときにオンギャーって凄《すさ》まじい声で泣くのってさ、なんかで読んだけど、生まれることを拒否する叫びなんだってね。なんでこんな気持ちの良い場所から俺を外に引きずり出すんだ。嫌だーっていう拒否の叫び。けっして、きゃー、お母さん、俺を生んでくれてありがとーなんて歓喜の叫びじゃないんだって。
なんかさぁ、ここに長く留まっていればいるほど、自分が、そんな胎児みたいになるようで怖くなってきたんだ。そのうち、ここ以外のどこにも行けなくなってしまいそうで……。
あなたはそんな風に感じたことはない?」
「わたしは……別に」
日美香は曖昧《あいまい》に首を振った。
「この村に来てから、この居心地の良さをおかしいと感じたことは一度もないのか?」
武は探るような目付きで日美香を見ながら言った。
「ないわ。五月にはじめてこの村を訪れたときから、とても懐かしい所に帰ってきたという感じしかなかった。どうしてはじめて来たところがこんなに懐かしいのか不思議な気がしたけれど、今から思えば、それは、わたしが祖母の転生者だったからなのね……」
「懐かしさだけ? たとえば、この村の奇怪で時代錯誤な風習とか掟《おきて》とか祟《たた》り神信仰とか、どこか変だとか奇妙だとか感じたことはないの? 最初からすんなり受け入れられたの?」
「確かに、最初は多少違和感みたいなものもあったけれど、そのうち、別に気にならなくなってきたわ……」
「あんた、大学は理系なんだろ? それなのに、自らを呪力《じゆりよく》で蘇《よみがえ》らせる転生だとか、そんなの本気で信じてしまうわけ? 非科学的だとは思わないのかよ」
「転生に関しては、はっきりと祖母の記憶が有るのだから、信じるも何も、事実としか思えないわ」
日美香は冷たく言い放った。
「だめだ、こりゃ」
武は肩をすくめるような仕草をした。
「完全に洗脳されちまってる」
「洗脳? わたしが誰に洗脳されたというの?」
日美香は気色ばんだ。
「決まってんだろ。叔父さんだよ」
武は言った。
「俺さ、ここに来てようやく分かったんだよ。叔父さんは、ただのオンボロ神社の神主なんかじゃない。この村の教祖みたいな存在だってことがさ。それも誇大妄想狂のチョット危ない教祖様だ。あんたは、五月にこの村に来て以来、少しずつ食い物に砒素《ひそ》を盛られるように、あの叔父さんに洗脳され続けてきたんだよ」
「お養父《とう》さんに洗脳? 馬鹿なこと言わないで。わたしは誰にも洗脳なんかされていないわよ。この村に来たのも、この村に止まっているのも、すべて自分の自由意志でしていることよ。だから、もちろん、わたしさえ望めば、自由にこの村を出て行くこともできるわ。お養父さんは、わたしが日女と分かっても、けっしてこの村に縛り付けようとはしなかった。何も強制しなかった。大学はそのまま続けていいって言ってくれたし、海外留学したければその費用も出すと言ってくれたわ。何でもわたしの望むように好きなようにしていいって言ってくれた。これのどこが洗脳なのよ?」
「狂人は自分のことを狂人だとは思わないように、洗脳されている最中は自分が洗脳されているとは気づかないんだよ。それに、何と言っても、叔父さんは、マジシャンとしては超一流だもんな」
「マジシャン……?」
「そう。こんなのマジックの使い古された手口さ。トランプをずらっと何枚も並べて、客にその中の一枚を選ばせるってやつ。一見、客は何枚もあるトランプの中から自分の意志で一枚を選んだかのように見える。本人もそう思い込む。でも、本当は、そう見せかけて、マジシャンがその一枚を選ぶように仕向けてるって手口だよ。あなたは自分の好みとか自分の意志で何かを選んだように思いこんでいるかもしれないが、本当はそうじゃない。叔父さんが一番望むカードを引かせられたにすぎないのさ……」