「このままここにいたら、俺まで洗脳されちまいそうで、それが怖いんだよ。だから、祭りが終わったら、俺はこの村を出る。あなたはどうするの?」
武は続けた。
「わたしは……」
「表向きは俺の家庭教師ってことでここに来たんだろ。だったら、俺が東京に帰ってしまえば、お役御免ってことだよな。まさか、東京とここを毎日往復するわけにもいかないだろうし。どうするんだよ?」
「わたしはここに残るつもりよ」
「残って、何するんだよ?」
「家伝書の残りを読むわ。あれは、門外不出で、この家の外には出せないから」
「あんな糞《くそ》面白くもない古文書読むだけのためにここに留まるの?」
武は疑わしそうな表情で聞いた。
「ええ。それと……」
日美香は何か言いかけたが、武は矢継ぎ早に言った。
「家伝を読んでしまったら? その後は?」
「その後は……」
「アメリカに単身留学するとかいう話はどうなったんだよ。大学休学したのも、俺のカテキョのバイトしたのも、元はといえば、そのためだったんだろ?」
「あれはやめたわ」
「やめた?」
「ええ。ここに来て、色々考えているうちに、どうでもよくなってしまって……」
「じゃ、今の大学に復学するつもり?」
武は執拗《しつよう》にたずねた。
「いえ、それも……。今のところは考えてないわ」
「アメリカ行きもやめた。大学にも戻る気なしって……まさか、ここにずっといるつもりじゃないだろうな? こんな何もない山奥に? 何のために?」
「……」
「おかしいよ!」
武は座卓をこぶしで叩《たた》いた。
「あなたみたいに若くて、知性も才能もありそうな女が、こんな山奥の村で、何もせずにただうすぼんやりとして暮らすなんて。叔父さんにそうしろって言われたのか」
「違うわ。わたしが自分で決めた事よ。お養父さんはむしろ、海外に行くことを進めてくれたわ」
「だったら……なぜ!」
武はじれったそうに言った。
「こんな山奥で何を好き好んで、女隠者みたいな生活を選ぶんだよ? 俺には全く理解できねえ」
「こんな山奥こんな山奥って言わないでよ。ここには都会にない雄大な自然があるじゃないの。水も食べ物も美味《おい》しいし。のんびりと暮らすには最高のところよ」
「そりゃ老い先短い年寄りどもが集まって日がなマッタリ暮らすには最高だろうけど、あんたや俺みたいな若者が暮らすとこじゃないだろ。肥溜《こえだ》め臭い自然とやらの他に何もないじゃんか。若い奴だったら、オラ、コンナ村ヤダって、おん出て行くのが普通だよ」
「だったら、あなたは出て行けばいいじゃないの。東京へでもどこへでも。祭りさえ終われば、誰も止めないわよ」
「一緒に帰ろう」
「……」
「俺と一緒に帰ろう。一緒に出るんだよ、こんなとこ。あんたは洗脳されかかってる。一度ここを出た方がいいよ。このまま居続けると、マジでおかしくなっちゃうぞ」
「東京に帰るといっても、すぐには無理よ」
「なんで?」
「ここでの滞在が長くなると思ったから、今まで借りていたマンションは解約してしまったから……」
「なんだ、そんなことか。だったらさ」
武は俄《にわか》に目を輝かせた。
「うちへ来いよ」
「うち?」
「うちだよ、俺のうち。それでさ、うちに住み込んで、カテキョのバイト続ければいいじゃん」
「……」
「そうだ。それがいい。うちもけっこう広いから、あなたの部屋くらいすぐに用意できるしさ。むろん家賃なんかいらない。親戚《しんせき》だもんな。そうすれば、ぼろいマンション借りるより快適だし、生活費も浮くぜ。おまけに、バイト料は入ってくる。いいことずくめのウハウハじゃん。おふくろなんて、三人めは娘がほしかったなんて前からよく言ってたし、おまけに住み込みでカテキョやってくれるなら大歓迎間違いなしだよ」
「……」
「な。そうしろよ。そうなったら、俺、死ぬ気で頑張るからさ。絶対、来年、第一志望に受かるから。そうしたら、バイト料に加えて、成功報酬としてボーナスが出るんだろ。それだけあれば、アメリカでもどこでも行けるじゃないか」
武は一人でまくしたてた。
「そうだ。アメリカ行くなら、俺も行ってやるよ。むこうは治安が悪いから、女の一人旅なんて危険だ。ひったくりとかレイプとか日常茶飯事みたいに起きてるんだから。あんたみたいな若い女は、絶対屈強な男の連れが必要だ。俺がボランティアでボディガードになってやる」
「入ったばかりの大学はどうするの?」
日美香は呆《あき》れたように聞いた。
「そんなのやめちまえばいい。どうせ、日本の大学なんて入ることに意味があるんだ。門入って一日でも通っておけば、翌日、退学したとしても、高卒から『ナントカ大学中退』って立派な学歴になるんだから」
「……」
「それでさ、アメリカ行って、しばらく暮らして飽きてきたら、またどこかへ行くんだよ。オーストラリアとか中国とか。なるべく国土のだだっ広いとこがいいな。ヨーロッパでもいいけど。ていうか、此《こ》の際、全部まとめて回っちゃおう。世界中を片っ端からぐるりと。で、世界中回り終えたら、次は宇宙に目を向けて、とりあえず近場の月あたりに……」
「ねえ、武君」
日美香は冷ややかな声で遮った。
「何よ?」
「あなた、さっき、お養父さんのことを誇大妄想狂って言ったけれど、黙って聞いてれば、あなたも十分妄想狂の素質があるんじゃない? 血は争えないわね」
「……俺のは妄想は妄想でも、実現可能の妄想だよ。世界旅行だって宇宙旅行だって、別に夢物語じゃない。妄想というより、大ざっぱな将来設計といってほしいね」
武は不満そうに言った。
「ようするにだ。俺が言いたいのは、一度この国を出て、どこでもいいから、もっと広い大きな世界から、日本という国を見てみろってことなんだ。こんなちっぽけな国の、その中の地図にも載ってない『日の本村』なんて、蚤《のみ》の鼻糞《はなくそ》よりちっちぇーてことに嫌でも気づくから。何千年続いた祭りだか風習だか知らないが、ここにいると、何やらご大層に思えるものも、もっと広い世界から見たら、しょぼすぎて泣けてくるほどちっぽけだってことが分かる。そうすれば、叔父さんにかけられた洗脳からも自然に覚めるさ。祟《たた》り神だとか転生だとか、そんな寝とぼけた大妄想からな。その第一歩として、ここを出て、東京の俺のうちへ行こうって言ってるんだ。俺、本気で言ってんだよ。冗談でも何でもないんだ」
武は真顔になって言った。
「あなたの気持ちは嬉《うれ》しいけど……」
日美香はそう言って、はっきりと首を横に振った。
「駄目なの?」
武の目から輝きが一瞬にして消えうせた。
「これほど言っても駄目なのか。そんなにこの村がいいの?」
「もうわたしはここに残ると決めたのだから。この決心は変わらないわ」
しばらく互いに無言で睨《にら》み合うように見つめ合っていたが、
「だったら……」
武はさきほどまでとは別人のような冷めたい声で言った。
「この話はこれ以上しても無駄ってことか」
「そうね」
「交渉決裂……てか。分かったよ。二度としねーよ」
投げやりな口調でそう言うと、武は、これで会話はおしまいとでもいうように、卓に投げ出してあった筆記具を取り上げた。
そして、広げたままの問題集の方に視線を落として、用がないならさっさと出て行けとでもいうような態度を示した。
「話はまだあるのよ」
しかし、日美香はその場に居座ったまま言った。
「なに、話って?」
武は問題集から目をあげず、面倒くさげに聞いた。
「さっき……」
日美香は言いにくそうに切り出した。
「この村に残って何をするんだって聞いたわよね」
「有り難い家伝書、読むんでしょ」
「その後のことよ」
「……」
「実をいうと、わたし、ここでやりたいことがあるの。この村はそれをするのにとても適した環境なのよ」
「何、やりたいことって?」
「子供を生みたいのよ」