「子供……?」
武はびっくり仰天したような顔で、日美香の方を見た。
「あんた、妊娠してたのか……?」
そう言って、思わずというように、不躾《ぶしつけ》な視線で日美香の腹部のあたりを見た。しかし、見たところ、お腹は平らで妊娠らしき膨らみは全く見られない。
「ひょっとしたら、前に付き合っていた大学の先輩とかいう男の……?」
おそるおそるそう聞くと、
「違うわ。妊娠なんかしてないわよ」
日美香は苦笑しながら言った。
「じゃ、一体、誰の子供生むつもりなんだよ?」
武は話が見えないという顔で聞いた。
「あなたの子供よ」
「……」
「あなたの子供を生みたいのよ」
「……」
武は聞いたこともない外国語で話しかけられた人のようなポカンとした表情で日美香の顔を穴があくほど見つめていた。
「あのさ」
ごくんと唾《つば》を飲み込んでから言った。
「俺、身におぼえないんだけど……」
「だから、妊娠はまだしてないって言ったでしょ」
「まだ……?」
「これからするのよ。その協力をしてほしいのよ」
「き、きょうりょくって……」
「できれば今夜にでも」
「……もう一度言うけど、俺はこの家に婿養子に来る気はないって。できちゃった婚なんか狙ったって無駄だって」
「それは分かってます。わたしの方もあなたと結婚する気はないわ」
「……」
「結婚しないで、あなたの子供だけほしいのよ。その子をここで生んで育てたいの。わたしがこの村に残る目的は、家伝書を完読するというのもあるけれど、本当をいうと、ここであなたの子を生んで育てるためなのよ。この村は、子育てには最高の環境だもの」
「……」
武は口をきく気力もなくしたように黙っていた。
「もちろん、子供ができたからといって、あなたには何の迷惑も負担もかけないわ。生まれたらお養父さんの籍に入れて、神家の子供として大切に育てるつもりだから。その子の父親があなただということは誰にも言わないし、この村にいる限り、そんなことを気にする人もいないわ。ここを出たら、あなたはここであったことなど奇麗に忘れてくれていいわ。自分の望む人生を真っすぐそのまま歩いていけばいいのよ。そして、いつか、好きな女性ができたら、その人と結婚して、あなたの家庭を作ればいいわ。間違っても、そのときになって、わたしが子供を連れて、あなたの前に現れるなんてことは絶対にないから心配しないで」
「なんでそんなに俺の子がほしいんだよ? まさか、結婚できなくても、せめてあなたの子供がほしいなんて、糞ドラマによくあるような女心とかいう奴じゃねえよな?」
「そんなんじゃないわ。わたしは、あなたのことを弟のようには思っているけれど、それ以上の気持ちはもっていないし」
「だったら、なんなんだよ? なんで大して好きでもない男の子供をそんなにほしがるんだよ?」
「それがわたしの使命だからよ」
「使命?」
「家伝書の冒頭に……」
日美香はそう言って、あの「双頭の蛇」に関するくだりの話をした。自分が宿すことになる武の子供に大神の御霊が復活するという自分なりの解釈を。
「つまり、こういうことか」
黙って聞いていた武は、眉《まゆ》を寄せ険しい表情になって言った。
「俺は聖なる種馬に選ばれたと。背中に出た蛇紋は、優良種馬の尻《しり》に押された刻印のようなものだと」
「そんな言い方しないで……」
「じゃ、どんな言い方すればいいんだよ。あんたの話を要約すれば、そういうことじゃんかよ。おまえはいらないから、おまえの子種だけよこせ。そう言ってるのと同じじゃないか。どこが違うんだよ? そういうのを巷《ちまた》では種馬っていうんじゃないんですか? 人、馬鹿にしやがって」
「そんなに怒らないでよ。わたしはもっと冷静に穏やかにこの話をしたいんだから……」
「真っ昼間から冷静に穏やかにする話かよ。俺は種馬の役なんて真っ平御免だね。そんなに若い種馬が必要なら郁馬さんにでも頼めば? 名前からして種馬むきじゃねえか。ヒヒーンって喜び嘶《いなな》いて引き受けてくれるかもよ。それに、あの人、あんたに気があるみたいだし。っていうか、もう貰《もら》ってたりしてな」
「貰うって何を?」
「あんたがその儀式とやらでほしがっているものだよ。郁馬さんのでいいじゃん。子供さえできればいいんだろ。それに、昨日の儀式、郁馬さんを俺だと思い込んで最後までやったんじゃないの?」
武は意地の悪い口調で聞いた。
「郁馬さんとは何もしてないわ。儀式をする前にあなたではないと分かって途中で取りやめてしまったから」
日美香は憤然と言った。
「取りやめた? 物置に戻ってきたとき、郁馬さんは、そんなこと一言も言ってなかったぞ。それに、取りやめたなら、なんであんなに時間がかかったんだよ……?」
「それは……」
日美香はやや口ごもりながら、昨夜あったことを話しはじめた。
神事を始める前に、手のひらの傷がないことから、蛇面を着けた青年が武ではなく、郁馬であることにすぐに気づいてしまったこと。それで、しばらく郁馬と話をしていたこと。郁馬は話だけすると、そのまま帰ろうとしたが、ふと思いついたことがあって、それを引き留めたこと。
「引き留めたって……なぜ?」
「郁馬さんのうなだれた姿を見ていたらなんだか可哀想になってしまって、一度くらいなら願いをかなえてあげてもいいと思い直したのよ。ただの遊びや面白半分であんなことをしたのなら叩《たた》き出していたけれど。あのときの彼の告白は嘘ではないと思ったから」
「情にほだされたってこと?」
「そんなところね。それに、それ以上にわたしには試してみたいことがあったのよ」
「試す? 何を?」
「前にお養父《とう》さんに言われたことがあるのよ。わたしはこの胸の蛇紋によって、大神の御霊に守られている。でも、守られているということは、同時に縛られているということでもあって、それはいわば見えない鎧《よろい》を着せられているようなもの。大神の真の依《よ》り代《しろ》となる特定の男以外には、その鎧は決して脱がせられない……て。この意味、分かる?」
「鎧を貞操帯とでも言い換えた方がより正確な譬《たと》えだと思うが」
「そういうことね。つまり、わたしはどうやら、同じお印のあるあなた以外の男を受け入れることができないみたいなのよ——」
「待てよ。それはおかしい。だって、あんたは半年くらい前まで大学の先輩とかいう男と付き合っていたんだろ。婚約寸前までいっていたって話、誰かから聞いたぜ。それって、ガセネタ?」
「いいえ、本当。新田裕介といって、今は大手自動車メーカーのエンジニアをしているけど、大学のサークルの先輩だった人。その人とは二年くらい付き合って、今年の四月にプロポーズされたわ」
「二年も付き合っていたなら、当然、その間に——」
武はそう言いかけると、
「それが何もなかったのよ」
日美香がすぐに言った。
「何も? 恋人同士だったんだろ? それなのに二年間も付き合いながら一度も?」
武は信じられないという顔で聞いた。日美香は真顔で頷《うなず》いた。
「肉体的な接触はキス止まりで、それ以上は何もなかった。ただ、プロポーズされてから、一度だけそういう関係になりそうになったことがあったのよ。でも、結局、その人は、わたしの胸の蛇紋を見た瞬間、まるで蛇に睨《にら》まれたカエルのようになってしまって……。それ以上何もできなくなってしまったのよ」
「……」
「でも、新田さんの場合はたまたまとも考えられる。たまたま、そのとき、体調が悪かっただけだとも……。それで、もう一度、郁馬さんで試してみようと思ったのよ。郁馬さんなら、新田先輩とは違って、神家の人間だし、蛇紋を見ても恐れるなんてことはないかもしれない……と思って」
「……」
「だけど、結局、郁馬さんも同じだった。新田さんのときと全く同じ状態になってしまったのよ」
「……駄目ガエル?」
「やっぱり、お養父さんのおっしゃったことは本当だったのよ。二人とも同じ反応を示すなんて」
「女には分からないかもしれんが、それはかなり悲惨な状況だ……」
武は郁馬に同情するように呟《つぶや》いた。
「そういえば、物置小屋に戻ってきたとき、ひどく憔悴《しようすい》したような顔してたっけ。何も言わなかったから、俺は別の意味に解釈してたんだけど……。ひどいな。あなたのしたことは、優しいというより、残酷だよ」
「そうね。郁馬さんにはよけい気の毒なことをしてしまったと思ってるわ……」
日美香は少ししょげてそう言ったが、
「でも、元はといえば、あなたと郁馬さんが悪いのよ。あんな交替劇を思いついたから。自業自得ともいえるんじゃないの?」
「……」
武はばつが悪そうに黙っていたが、
「叔父さんで試してみた?」
と唐突に聞いた。
「え?」
日美香は一瞬意味がわからないという顔で聞き返した。
「新田という男も郁馬さんも、あんたの蛇紋を見て駄目ガエルになってしまったんだとしたら、同じ蛇紋をもつ叔父さんなら大丈夫かもよ。蛇同士ってことで……」
「馬鹿なこと言わないで!」
日美香はようやく武の言わんとすることの意味が分かったというように、ひどくうろたえた顔で一喝《いつかつ》した。
「馬鹿なこと? そうかなぁ。一度お願いして試してみればいいじゃん。叔父さんも若いとはいえないけど、まだ現役引退って歳でもないし」
「ふざけたこと言わないで。かりにも父娘なのよ。そんなことできるわけないじゃないの!」
「どうしてさ? 異母姉弟《きようだい》でできることなら、父娘でもできるんじゃないの? ましてや、実の父娘ってわけじゃないんだから」
「実の父娘じゃなくても、血はつながってるのよ。母の実兄なんだから。伯父|姪《めい》なのよ。しかも前世では、実の母子でもあったのだから」
「……」
「それに、何度言ったら分かるのよ。わたしたちは異母姉弟じゃないって。わたしは祖母の転生者で——」
「もういい、その話は。先に言っただろ。俺は呪力《じゆりよく》によって自分のクローンを生み出す転生なんて与太話は信じないって」
武はうんざりしたような顔で遮った。
「とにかく、これで」
日美香は決然と言った。
「何もかも包み隠さず率直に話したわ。わたしの気持ちも、あまり人前では言いたくないことまで全部洗いざらい……。後は、あなたの決心次第よ」
「決心も糞《くそ》もない。クサレ家伝がどんな予言をしようと、俺は、種馬役なんか絶対に御免だ」
武は怒ったような顔つきで言い切った。
「どうしても嫌だというなら仕方がないけれど……」
日美香はため息混じりにそう言ってから、
「もう一度だけよく考えてみて。それで、もし、気が変わったら、今夜零時までにわたしの部屋に来て」
「……」
「部屋でずっと待っているから……」