どこかで柱時計が鳴りはじめた。
日美香は部屋でそれを聴いていた。
ボーン、ボーンと、時計の音は夜のしじまを震わせるように鳴り響いて、十二回鳴って、ぴたりと止まった。
零時……。
日美香は反射的に自分の腕時計を見た。
零時五分前を指している。
あの柱時計は五分ほど進んでいるようだ。
それとも、わたしの腕時計が五分遅れているのだろうか。
腕時計の方が正しければいいのだが……。
そんなことを思った。
たった五分だったが、それでも、この五分間に僅《わず》かな希望を託せる。
武が来ないことは分かっていた。
昼間、話をしたときの、あのあからさまな拒否の感触からして……。
夕食の席でも、その態度は目に見えてよそよそしかった。隣りあっても一言も口をきこうともせず、目を合わせようとしない。無言の怒りをあえて隠そうともしなかった。食欲も朝ほどの旺盛《おうせい》さは見せずに、膳《ぜん》に出ていたものを奇麗に平らげただけで、済ませると、さっさと座敷を出て行ってしまった。
でも、あれから部屋に戻って一人で考えて、もしや、考えを変えたのではと一抹の期待を抱いていたのだが。
やはり、無理だったのか……。
日美香は立ち上がると、窓辺に寄り、カーテンを少しめくって、外を見た。
中庭を挟んで武の部屋の窓が見える。
窓の明かりは消えていた。
少し前に見たときは、枕元の電気スタンドだけをつけているような、薄ぼんやりとした明かりがカーテン越しに灯《とも》っていたのに。
それが完全に消えている。
もう寝てしまったのか……。
日美香は深いため息をついた。
一時間ほど前に見たときには、窓の明かりは、部屋の主がまだ起きていることを示すように煌々《こうこう》と灯っていた。それが、しばらくして見ると、布団に入って、枕元のスタンドをつけただけのような薄ぼんやりとした明かりに変わり、今は、その明かりさえもない。
窓は黒々と闇に包まれていた。
その窓の明かりの変化は、カーテンをめくって、それを何度か確認していた日美香の心の明るさと連動していた。
窓に煌々と明かりが灯っていたときは、まだ可能性はあると希望をもっていた。それが、小さな明かりに変わったときは、彼女自身の希望の明かりも少し小さくなったが、それでも、まだ明かりは灯っている。寝床に入って、本を読むか考えごとでもしているか……。いずれにせよ、まだ眠ってしまったわけではない。考え事をしているのだとしたら、昼間の決心をぎりぎりになって翻す可能性もゼロではない。
窓を彩る薄ぼんやりとした明かりのように、日美香の心のうちにも、同じようなぼんやりとした明かりが灯っていた。
しかし、今……。
明かりは消えた。
部屋の主が就寝してしまったことを示すように窓の明かりは消えていた。
それは、日美香の胸の内に僅かに灯り続けていた希望の光も完全に消えたことを意味していた。
日美香はもう一度深いため息をつくと、窓辺を離れた。
まだ落としていなかった、というより、武を待つ間に、何度も塗り直した寝化粧を落とそうと鏡台の前に座った。クレンジングクリームを手に取って、顔の色彩を丹念にこそげ落としていく。
やがて、ほの暗い鏡の中に浮かびあがる、全く色彩のなくなった自分の白い顔を見て、哀れむように微《かす》かに笑った。
鏡に映るその肌は、化粧などまだ必要としないほどにきめ細かく瑞々《みずみず》しかったが、こちらを見つめ返している双の目だけが、年増女のような疲れた色を湛《たた》えている……。
それは、恋人を待ち侘《わ》びる乙女の目というよりも、まるで客を待ち続ける年とった娼婦《しようふ》のような目だ、とふと思った。
そういえば……。
転生者の特徴は目に現れると誰かが言っていた。
どんなに若々しく瑞々しい外見をしていても、その目だけが年輪を重ね年とっているものだと……。
一体、この目はどのくらいの時を生きてきたのだろう。
今まで、何度となく鏡をのぞき込んだことがあったが、髪形や顔かたちを見ることはあっても、こんなにまじまじと自分の目の奥まで見たことがなかった。
肉体だけは赤子から乙女へと常に新しく蘇《よみがえ》っても、この目だけは変わらない。百年、千年、あるいはそれ以上の歳月を、時を越えて、生き続けてきた者しか持ち得ない深い色と澱《よどみ》を湛えている……。
年とった大蛇の目……。
それはまさしく年老いた女蛇の目だ。
わたしはこんな目をして、この先も、肉体の衣だけを脱ぎ変えて、また百年、千年と生き続けていくのだろうか。
そんなことをぼんやりと思いながら、鏡の前にいたとき——。
ふと、物音を聞いたような気がした。
空耳?
日美香は耳をすませた。全身を聴覚にして、その音の正体を聞き分けようとした。
空耳ではない。
廊下の方から、微かな物音がする。みしっ、みしっと廊下の軋《きし》むような音に混じって、ひたっ、ひたっと誰かが足音を忍ばせて歩いてくるような微かな物音が……。
日美香は鏡の前で、自分の顔を見つめたまま、石のようになっていた。自らの姿を見て石になってしまったという女怪メドゥサのように……。
足音?
誰かが廊下をスリッパもはかずに、素足のまま、足音を殺すようにして歩いてくる。
その音が次第に大きくなってくる。
ひたひた、ひたひた……。
まさか。
いや、そんなはずはない。
彼のはずがない。
きっと、家人の誰かがトイレにでも起きたのだろう。
そのうち、足音は、この部屋の前をそのまま素通りしていく……。
しかし、その密《ひそ》やかな足音は部屋の前までくるとぴたりと止まった。
日美香の心臓が早鐘を打ったように鳴り始めていた。
止まった?
しばらく、一切の音が止んだ。
やがて……。
遠慮がちな感じで、襖《ふすま》の戸をコンコンと叩《たた》く音がした。
鏡台の前から反射的に飛び離れ、戸口まで行き、襖を開けると……。
そこに、強ばった表情をした武が立っていた。