「……来ませんねぇ」
腕時計を見ながら、高野洋平が痺《しび》れを切らしたように言った。
片手には村の廃材置き場から拾ってきた角材が握り締められている。
「もう午前二時半ですよ? 先輩が聞いた話では、ここで神事がはじまるのは午前一時頃だってことでしょ。もう一時間半も過ぎてますよ? 本当に来るんですか」
「何かの事情で遅れてるのかもしれん。もう少し待ってみよう」
藪《やぶ》にしゃがみこみ、もっていたビデオカメラを下に置いて、寒そうに両手で両腕を抱くようにしてさすっていた鏑木が弱々しい声でそう答え、その直後に、「へーくしょんっ」と大きなくしゃみをして、ぶるっと身を震わせた。
日付が六日から七日に変わった零時ちょうどに、荷物をもって日の本寺をこっそり抜け出した鏑木たち四人は、高野の運転するワゴンで蛇ノ口まで来ると、ワゴンを近くに停め、底無し沼の見える藪の中にずっと身を潜めていたのである。
ところが、予定の午前一時を過ぎても、神輿《みこし》をかついだ神官らしき姿は一向に現れなかった。
十一月初頭ともなると、このあたりは朝晩はかなり冷え込みがきつくなる。待っている間、暖を取るために携帯カイロをもってきたのだが、それさえもあまり役には立たないような寒さだった。
「ぼく、もう帰りたいです……」
巨体を寒さでがたがた震わせながら丸山が情けない声で言った。
「もうちょっとの辛抱だ。頑張れ」
鏑木が叱咤《しつた》激励した。
「……」
「……」
「……あの、おしっこしてきていいですか」
数分後、また丸山が情けない声で言った。
「おしっこ?」
「寒さで催してきたみたいで……」
どうやら震えているのは、寒さのせいだけではないらしい。股間《こかん》のあたりを、紅葉まんじゅうのような両手で押さえて、満月のような顔を苦しげに歪《ゆが》めている。
「我慢しろ。おまえが出て行って、やってきた神官たちと鉢合わせになったら、これまでの苦労が水の泡じゃないか」
鏑木が困ったように言った。
「で、でも、もう我慢の限界です。も、漏れちゃいそう。ここでしちゃっていいですか」
丸山は悲鳴のような声をあげると、特大ズボンのファスナーをおろしかけた。
「ば、馬鹿。こんなとこでするな。一応ご神域だぞ、バチがあたるぞ」
高野が慌てたように言った。
「するなって言っても出ちゃう」
「ちぇっ。しょうがねえな。こんなとこでジョロジョロやられたらたまらん。早く行って来い」
鏑木が舌打ちして許可すると、丸山は股間を両手で押さえたまま、山が動いたようにすっくと立ち上がり、藪の中から脱兎《だつと》のごとく外に走り出て行った。
「あいつ、いざとなると素早く動けるみたいだな」
丸山の姿を見ながら、鏑木が呟《つぶや》いた。
二十分ほどが経過した。
「……丸山、遅くないか」
鏑木がふいに言った。
「出すもん出したら、ほっとしてまた動きが鈍くなったのかも」
高野が答えた。
「……」
さらに十分ほどが経過した。
丸山はまだ戻って来ない。
「おい。遅すぎるぞ……」
鏑木がまた言った。
「よっぽど溜《た》まっていたのかな」
「まさか、途中で沼にはまったとか……?」
「そんなことねえだろう。沼ならそこに見える」
「他にも沼があったりして」
「沼にはまったなら、悲鳴くらい聞こえてくるだろうが」
「それもそうですね。じゃ、ついでに大の方も催したんで、のんびり野糞《のぐそ》楽しんでるとか」
「……逃げたんじゃないだろうな」
「え」
「あいつ、車の運転できるのか?」
鏑木がはっとしたように高野に聞いた。
「ああ見えてできます。免許もってるし、ここに来るとき、運転代わって貰《もら》った事も……まさか?」
高野もぎょっとしたように声をあげた。
「あいつだけワゴンに飛び乗ってそのまま豚走、いや遁走《とんそう》——」
「もう帰りたい帰りたいってしきりに口走ってましたからね。おしっこだなんてのは実は口実で」
中西も不安そうに言った。
「冗談じゃねえぞ。あいつに逃げられたら、いざというときの置き去り作戦はどうなるんだよ?」
と鏑木。
「置き去り作戦? なんです、それ?」
中西が不思議そうに聞く。
「なんでもない」
そう言ってから、鏑木は独り言のように続けた。
「牛でも馬でも、ほら、食肉になる前には、なんとなく身の危険を察知して、いつもと様子が違うっていうじゃないか。時には逃げ出すこともあるって。だから、丸山も、漠然《ばくぜん》と我が身の危険を察知したのかも。もしや前日に御馳走《ごちそう》たらふく食わせたことで感づかれたか」
「それより何より、ワゴンなくなったら、俺たち、ここからどうやって帰るんですか」
高野も愕然《がくぜん》としたような顔になった。
「しっ」
そのとき、中西が鋭く言った。
「誰か来ます」
鏑木と高野は思わず顔を見合わせた。
確かに、今までリーンリーンと虫の声しか聞こえてこなかった沼気たちこめる闇の中で、がさがさと人が近づいてきたような物音と気配がする。
遅れていた神官たちが現れたのかと一瞬緊張したのもつかの間、のっそりと目の前に現れたのは巨体の丸山だった。
さきほどまでの苦痛に歪んだ顔とは別人のようなリラックスした顔になっていた。
「……なんだ、おまえか」
鏑木がほっとしたように言った。
「何してたんだよ。あんまり遅いから、一人で逃げたのかと思ったぞ」
「逃げたりしませんよ。用を足したあと、ちょっと通りの方に出てみたんです。ほら、神官たちが神輿かついできたら、遠くからでも、提灯《ちようちん》の明かりとか見えるはずでしょ。それが見えないかなーって思って」
丸山はそう言った。
「見えたのか?」
「いいえ。ぜんぜん。明かりなんかどっこにも見えませんよ。ねえ、本当に、ここで神事なんて行われるんですか?」
丸山は疑わしいという顔つきで聞いた。
「もう午前三時過ぎてますよ? ひょっとしたら、急遽《きゆうきよ》、取りやめってことになったんじゃ……」
「そんなことない。七年に一度の大事な神事だ。そんな簡単に取りやめになるはずがない」
「でも、急遽延期にするくらいなら、急遽取りやめになることだってあるんじゃないですか」
「……」
「ねえ、先輩」
高野が言った。
「そもそも、この神事、一日延期になったって話、本当なんでしょうか」
「……どういう意味だよ?」
「先輩、その話、あの寺の住職から聞いたんでしょ?」
「……」
「老獪《ろうかい》な住職に一杯食わされたなんてことはないでしょうね……?」
「……」
鏑木は答える代わりに、もう一度、「へーくしょんっ」と大きなくしゃみをした。
その頃。
日の本寺の鏑木浩一が泊まっていた部屋の襖戸をそうっと開けて、中を覗《のぞ》きこんでいる人物がいた。
住職の神一光《みわいつこう》だった。
明かりを点《つ》けなくても、廊下の常夜灯の明かりだけで、部屋の中がもぬけの殻であることは一目で見て取れた。
布団は敷かれていたが、そこに人が寝ている気配はない。
他の三人の連れが泊まっていた部屋も同様だった。荷物もなくなっている。
泊まり客用の下駄箱からも、四人の履物は奇麗になくなっていた。
「……たわけ者が」
それを確認すると、住職は薄く笑い、吐き捨てるように呟いた。
「まんまと引っ掛かりおって。来もしない神輿を待って、せいぜい風邪でもひくがいい。その頃気づいても、これが本当の後の祭りじゃて……」