十一月七日の朝。
朝食をすませた神家の人々はほぼ全員、玄関の前に集まっていた。今朝一番のバスで帰るという武を見送るためだった。
「どうしても帰るのか」
ボストンバッグをさげている甥《おい》に向かって、聖二は念を押すように聞いた。
「どうもお世話になりました」
武は叔父の質問には答えず、それだけ言って頭をさげた。
「明日ならば、私も上京する用があるから郁馬の車で長野駅まで行って……」
一緒に新幹線で帰らないかと聖二は提案したが、武は即座にかぶりを振った。
「今日帰ります」
「……そうか」
聖二はそれ以上の説得はあきらめたような顔でそう言い、
「まあ、また遊びに来いよ。正月にでも」
と明るい口調で言った。
武はその言葉が聞こえなかったのか、何も答えなかった。
もう一礼すると、「じゃ」と言って、名残惜しそうにしている見送りの人々に片手をあげ、門の方に歩き出した。
「一の鳥居のところまで見送るわ」
そう言ったのは日美香だった。
そして、武と並んで門を出た。
神家の門を出て、三差路まで歩き、その三差路をさらに一の鳥居に続く杉木立の参道を肩を並べて歩きながら、二人は一言も口をきかなかった。
やがて、目の前に一の鳥居が見えてきた。
その少し手前で立ち止まると、武はようやく口を開いた。
「ここまででいいよ。バスの時間まで、まだだいぶあるから」
腕時計を見ながら、そっけない口調でそう言った。
「ええ……」
日美香もそこで立ち止まると、
「もう二度と来ないつもり?」
声を押し殺してそうたずねた。
武は頷《うなず》いただけだった。
そして、少し沈黙したあと、
「あなたも、気持ちは変わらないんだよね?」と、日美香の顔を見ないで聞いた。
「変わらないわ」
日美香はきっぱりと言った。
「じゃ……」
武はそう呟《つぶや》くと一の鳥居に向かって歩き始めた。
日美香はその場に立ち止まっていた。
武の心持ち肩を落とした長身が一の鳥居をくぐり抜けた。
日美香はじっと目をそらさずにその背中を見つめていた。
彼はおそらくこのまま振り返りもせず、バス停まで続く一本道を歩いて行くのだろう……。
そう思いながら。
その後ろ姿が視界から消えるまで、ここでこうして、手も振らず、ずっと見送るつもりだった。
ところが……。
一の鳥居を抜けて、少し行ったところで、武は何を思ったのかふいに立ち止まり、まるで見えない手でぐいと後ろ髪を引かれたように振り返った。
振り返ったその顔が、何か言いたげに歪《ゆが》んだ。
しかし、口を開きかけたその瞬間、日美香の方を見ていた目が何かを捕らえたように見開かれた。
日美香を見ていたのではなかった。
日美香も思わず後ろを振り返った。
武が自分の背後にあるものを凝視しているような気がしたからだ。
杉木立に囲まれた参道をむこうから一人の男が近づいてくるのが見えた。
聖二だった。
彼も甥を鳥居まで見送るつもりで少し遅れてやって来たようだった。
武はその叔父の姿をじっと見ていたのだ。
睨《にら》みつけるという目ではなかった。
いつかのように反抗的な色はその目にはなかった。
しかし、この村に来る前に見せていたような、甘えるような慕うような色もそこにはなかった。
ただ、見返している。
見下ろすのでも見上げるのでもない。
真っすぐ見返していた。
その目には、愛情も憎悪もなかった。
甘えも敵意もない。
子供が大人を見る目ではなかった。
それは強いて言えば……。
一人の男が一人の男を全く対等の立場で静かに見返している。
そんな目だった。
武は、立ち止まったまま、じっと叔父の姿を凝視していたが、それもほんの数秒のことで、やがて、ふっきれたように視線をはずすと、くるりと前を向き、歩き始めた。
今度は振り向かなかった。
すたすたと大股《おおまた》で真っすぐバス停に続く道を歩いて行く。
その姿はどんどん小さくなっていき、そのうち、道の両脇に生えた人の背丈ほどもある雑草の群れに飲み込まれるように、日美香の視界から消えた。
武の姿が消えると、ようやく呪縛《じゆばく》が解けたように、日美香はもう一度後ろを振り返った。聖二はすぐ背後まで来ていて、そこに立ち止まっていた。
そして、黙って、日美香の方を見ていた。
その目には……。
いなくなった母親を探しにきた子供が、その母親がどこにも行かずにそこにいたことを発見してほっと安堵《あんど》しているような、そんな色が浮かんでいた。