十一月十日。火曜日の夜。
会社帰りの喜屋武蛍子が、行きつけのバー「DAY AND NIGHT」の扉を開けると、カウンターに背中を丸めるようにして座っている鏑木浩一の姿を発見した。
「鏑木さん……」
蛍子はその姿を一目見るなり、思わず言った。
無事に帰ってきたのか。
そんな思いだった。
「あ、どうも」
鏑木は蛍子の方を見ると、軽く頭をさげるような仕草をした。
鏑木の前には、いつものようにビールではなく、湯気のたつ黄色い飲み物の入ったグラスが置かれていた。
鏑木はその飲み物を両手で包むように持ち、時折、ずずっとハナをすすり上げながら飲んでいた。
「日の本村からはいつ……?」
隣に座って、いつものカクテルを注文してから聞くと、
「七日の朝です」
鏑木はそう答えた。声ががらがらに嗄《か》れている。
「携帯に何度か連絡いれたんですが、すぐに留守番サービスになってしまうので、何かあったのではないかと心配してたんですよ」
蛍子がそういうと、
「ご心配かけてすみません。あそこから帰った直後、風邪でダウンしちゃって」
鏑木は苦笑いしながら頭を掻《か》いた。
「ようやく熱が下がったんで、出歩けるようになったんです。まだ咳《せき》が出て、頭がふらふらするんですけど。で、マスターにこれ作ってもらって。ホットレモン。風邪にはビタミンCを多く取ればいいとかで」
「でもよかった……」
蛍子はほっと胸をなでおろすように言った。
「携帯がつながらないから、まさか、あなたも伊達さんのように……なんて悪いことばかり考えてしまって」
「一言帰ってきたって連絡だけでも入れればよかったですね。でも、うちに着いたとたん、そのまま意識失うようにバタンキューだったもんですから……。こういう時、彼女もいないチョンガーはつらいです」
鏑木は、「彼女もいない」を心なしか強調しながら侘《わび》しそうに言った。
「それで、どうだったんですか、あちらでは」
蛍子はさっそく聞いた。
「それが……」
鏑木は、時折咳き込んだり、ハナをすすったりしながら、日の本村であったことの一部始終を蛍子に話した。
「……それでは、今年の一夜日女《ひとよひるめ》があの埼玉で誘拐された幼女かどうかということは……」
話を聞き終わると、蛍子は眉《まゆ》を顰《ひそ》めて言った。
「結局分からずじまいでした。いやあ、面目ないです」
鏑木はしょぼんとして、誰にともなく頭を下げたあと、こみあげてきた怒りを押さえるような声で、
「どうやら、日の本寺の狸|爺《じじ》ィにまんまと一杯食わされたようです」と付け加えた。
「最後の神事を一日延期するというのは、住職のついた嘘だったってことですか」
蛍子がそう聞くと、鏑木は頷《うなず》いて、
「どうもそのようでした……」
結局、空が白みかけるまで、蛇ノ口に潜んで待っていたのだが、神輿《みこし》をかついだ神官はおろか、猫の子一匹現れず、鏑木たちはすごすごワゴンに乗って、いったん日の本寺に舞い戻ったのだという。
「生き贄《にえ》の幼女を助けたら、そのままワゴンで東京まで帰るつもりだったんですが……。こんな結果になってしまったんで、寺に戻ったんですよ。それで、翌朝、朝食のときに、住職にそれとなく、『一夜日女の神事』は無事に終わったのかと聞くと、あの狸爺ィめ、なんてぬかしたと思います?」
鏑木は今思い出しても腹がたつという顔つきで、まるでそれが住職の皺首《しわくび》ででもあるかのように、手近にあったおしぼりを両手でねじり上げた。
「今年は神事の模様をこっそり盗み見にくるような不埒《ふらち》な観光客もなく、万事滞りなく終了して、大神の御霊《みたま》を無事御山に返すことができたと満面に笑みを湛《たた》えてぬかしやがったんですよ。その顔を見たときに、ああこれはやられたと悟りました。一杯くわされたと。神事は、予定通りに行われてしまったんです。前日の夜に……」
「……」
「ただ、俺が思うに、あれは住職の悪知恵というより、あの宮司の差し金じゃないかって気がするんです。つまり、宮司のお達しというのは、最後の神事が一日延期になったってことじゃなくて、うっかり口が滑ったふりをして俺にそう伝えろってことだったんですよ、きっと。近藤さつきの替え玉作戦を咄嗟《とつさ》に思いつくような悪賢い奴なら、いかにも考えそうなことです」
「その宮司という人には会ったのですか?」
「いや、直接は会えませんでした。雑誌の取材という形で面会を申し込んだんですが、祭りの準備で忙しいからと断られて。会って話ができたのは、神郁馬という若い神官だけです」
「しかし、寺の住職がそんな嘘をわざわざついたのは、鏑木さんのことを単なる取材で来たのではないと疑っていたということでしょうか?」
それまで黙っていた老マスターが口を挟んだ。
「かもしれませんね。俺は、喜屋武さんのことも伊達さんのことも一切触れずに、あくまでもフリーのフォトジャーナリストとして取材に来たというスタンスで押し切ったつもりだったんですが、喜屋武さんたちとのつながりを疑われてしまったのかもしれません。今から思えば、あの若い神官と話していたとき、なぜ、こんな人に知られていない村の祭りに興味を持ったのだということをしきりに気にして聞いてきましたからね。あのあたりで既に怪しいと思われていたのかも……」
鏑木はそう言って、カウンターに両|肘《ひじ》をつくと、両手でボサボサ頭を掻き毟《むし》りながら、
「ああ、俺の馬鹿、間抜け、どじ、阿呆《あほう》。どうして、あんな狸爺ィの話をアッサリ信じちまったのかなぁ。爺ィの話を真に受けず、予定通りの日に蛇ノ口に潜んでいたら、近藤さつきを助けることができたかもしれなかったのに。あんな小さな子が生きたまま底無し沼になんて思うと、悔やんでも悔やみ切れないですよ」
そう嘆いた。
「そんなに自分を責めないで」
蛍子は鏑木の肩に手をおいて、慰めるように言った。
「一夜日女が近藤さつきだったかどうかは確かめられなかったわけでしょう?」
「何度か、『物忌《ものい》み』という家屋に侵入しようとしたんですが、祭り期間ということもあってか、警戒がやたらと厳重で」
「だとしたら、あの子ではなかったのかも……」
蛍子は言った。
「あれから考えたんですけど、わたしがあそこの竹林で見たのは近藤さつきではなかったのかもしれません。テレビであの子の写真を見て、年格好や髪形や頬の黒子《ほくろ》から似ているように思ってしまったけれど、あのとき見た女の子が近藤さつきだったと言い切れるだけの自信はどこにもないんです。近藤夫妻が見たという女の子がやっぱり、わたしが見た子だったのかもしれない」
「……」
「そもそも、真鍋さんの本にも書いてあったように、生き贄《にえ》の儀式なんてとっくに廃《すた》っていて、神事といっても、その年の一夜日女の名前を書いた藁《わら》人形を沼に沈めるだけの形式的なものだったのかもしれないし……」
「でも、それなら、その神事が一日延期になったなんて嘘つく必要はないじゃないですか?」
鏑木はすぐにそう反駁《はんばく》した。
「生き贄儀式をよそ者に見られたくないからこそ、あんなフェイントかけてきたんだろうから。藁人形沈めるだけの形式的神事なら、別に見られてもいいじゃないですか」
「そうとは限らないわ。たとえ藁人形を沼に沈めるだけの儀式でも、見てはならないという昔からある掟《おきて》を守ろうとしただけかもしれないでしょ。ただの観光客相手ならそこまでしなくても、あなたが雑誌の取材で来たマスコミ関係者と聞いて、村の連中も少し神経質になって警戒したのかもしれない。それで、あんな嘘をついて牽制《けんせい》したのかも」
「いっそ、そういう風に思えたら、俺も少し気が楽になるんですが……」
「きっとそうですよ。生き贄の件だけじゃなくて、他のことも、あの日の本村に関することはすべて、考えれば考えるほど、わたしたちの妄想というか考え過ぎだったような気がしてきたんです、わたし」
「……」
「伊達さんの件もそうです。もしかしたら、彼の失踪《しつそう》はあの村とは何の関係もないのかもしれない。警察が考えているように、何らかの事情で伊達さん自身が自分の意志で姿をくらましているだけなのかも……」
「……」
「達川さんの事件も、やはり、失業や離婚を苦にした衝動的な自殺にすぎなかったのかもしれないし。思えば、あの村にかかわる一連の疑惑の源は、この達川さんの妄想じみた疑惑からはじまったんです。次期総理とも呼び声の高い人気政治家の大スクープ記事をものにしようと功を焦った一週刊誌記者の」
「……」
「そして、その彼が自殺とも他殺ともつかぬ変死をした。それで、今度はその妄想が伊達さんに感染して、その伊達さんの失踪によって、わたしまでもが感染して……と、功名心に取り付かれた一人の週刊誌記者の妄想が次々と妄想を生み出す、いうなれば妄想の連鎖のようなものに巻き込まれてしまったのではないか。冷静になってよく見れば枯尾花にすぎないものを、最初の一人が幽霊だと騒ぎたてたばかりに、回りにいた人たちもそれにつられて幽霊だ幽霊だと騒いでいただけのような……。
それに、そういう妄想の連鎖にくわえて、あの日の本村というところが、そこだけ時間が止まってしまったような、ひどく排他的で閉鎖的な村だったことがよけい、あの村で何か暗い犯罪めいたことが行われてきたみたいな印象を強めてしまった。なんだかそんな気がしてきたんです」
「そう言われてみれば、俺もちょっと自信なくなってきたな。新宿の居酒屋で、達川さんからこの話を聞いたときは、最初は、酔っ払いのたわごとって感じで聞き流してましたからね。それが、その後で、達川さんが自殺めいた変死をしたと聞いて、待てよと考え直したんです。やっぱり、あれは酔っ払いのたわごとにすぎなかったのかな。それに俺たちが踊らされていたにすぎなかったのか……」
鏑木も複雑な表情で言った。