喜屋武蛍子が自宅マンションのある駅で降り、駅の改札を抜けた頃、時刻は既に午後十一時になろうとしていた。
駅舎を出ようとして、蛍子は、「あちゃー」と小さく声をあげた。
「DAY AND NIGHT」を出たときはまだ降っていなかった雨が、かなり本降りになっていたからだ。
朝から幾分曇り気味ではあったが、出がけに見た天気予報では「一日曇り」ということだったので、傘は持参してこなかった。
駅からマンションまでは歩いて十五分ほどである。ぱらつく程度の小雨ならば、このまま歩いて行ってしまうのだが、音をたてるほどの土砂降りとなるとそうもいかない。
しょうがない。タクシーにするかと、行列のできているタクシー乗り場の方に行きかけたとき、「叔母さん」と背後から声をかけられた。
振り返って見ると、甥《おい》の豪が改札を抜けてこちらにやってくるところだった。
学校帰りらしく制服のままでカバンをさげ、手には明らかに女物と思われる派手なピンク地の花模様の傘を持っていた。
「今、帰り? 遅いじゃない」
そう言うと、
「姉ちゃんとこに寄ってきた」
と豪は答えた。
「その傘、火呂の?」
そう聞くと、豪は頷いた。
火呂のマンションを出るとき、雨がかなり激しくなっていたので、借りてきたのだという。
「叔母さん、傘は?」
蛍子の方を見て豪が聞いた。
「持って来なかったのよ。ちょうどよかった。タクシー乗り場、混んでるみたいだから」
「俺もよかったー」
豪はほっとしたような顔で言った。
「こんなド派手な女物の傘さして一人で歩くのこっ恥ずかしいもん。電車の中で、これ持ってたら、どっかでかっぱらってきたんじゃねえかって目つきでじろじろ見やがるババアがいてさ。めちゃ気分悪かった」
豪はそう言って、ピンクの傘を蛍子の手に押し付けると、
「これを叔母さんがさして、叔母さんの傘に俺が入れてもらったって形にすると格好がつく」
「あんたって、案外、人目気にするのね」
蛍子は笑いながら、押し付けられた女物の傘をさした。
「相合い傘の相手が叔母さん……つうのがチョットあれだけどな。ま、この際、贅沢《ぜいたく》は言えないか」
ぶつくさ言いながら、豪は傘の中に入ってきた。
「何いってるのよ。だったら、早く相合い傘のできる彼女でも作りなさいって」
「……」
「ひとのこと、やれ彼氏はできたか、結婚はまだかってすぐに言うくせに、あんた、自分はどうなのよ。今まで彼女っていたことあるの?」
「……」
「そういえば、わたしのとこに同居するようになって、女の子が訪ねてきたり電話かかってきたことってただの一度もないわよねぇ。誰かと付き合ってるって話、ちらとも聞いたことないわよねぇ」
「……」
「もちろん紹介されたこともないし。うちに遊びに来るのはむさい男ばっかりだし。まさか……豪、あんた、彼女いない歴十七年とかいうんじゃないでしょうね」
「……悪いかよ?」
「え。そうなの? 沖縄にいたときから?」
「女って馬鹿なんだよな」
駅舎を出たあと、相合い傘で歩きながら、豪は断定的に言った。
「なんていうかなぁ、こう、男を外見でしか判断しないつうかできないつうか。中身で判断できないというか。やっぱ、男より脳みそが少し足りないせいかな」
「ちょっと。女が男より脳みそが足りないって、どこのどいつが唱えた説なのよ?」
「定説じゃないの?」
「脳みその比重に関係なく、外見でしか判断できないのはお互いさまでしょ」
「……。ま、ようするに、俺の内面的な良さが分かるような女にはなかなか巡りあえないというかな」
「一生言ってなさい」
「そんなこと、三十過ぎても行き遅れてる叔母さんに言われたくないよ」
「十七年も彼女いないあんたになんかにもっと言われたくないわよ」
「……」
「……」
やや気まずい沈黙が続いた。
相合い傘のまま互いに無言で歩き続ける。
車一台がようやくすれ違えるくらいの車道沿いの道を歩いていたのだが、どしゃぶりの雨の中、車がそばを走り抜けるたびに、車道側を歩いていた蛍子のスカートや足元にも、泥水が容赦なく跳ね飛んでくる。
「叔母さん、こっち」
何を思ったのか、豪は突然立ち止まり、蛍子の袖《そで》を引っ張って言った。
「何?」
「そっち車道だから……」
位置を替われということらしい。
二人は無言のまま互いの位置を入れ替わった。
よく憎まれ口をきく甥ではあるが、どこか憎めないのは、こういうところがあるせいだろうか。
無神経なのか意外に繊細なのか、時々分からなくなるような言動を示すことがあった。
「火呂、元気だった?」
やや気まずい沈黙が続いたあと、蛍子は話題を変えるように聞いた。
「うん」
「今度の休みに、わたしも遊びに行ってこようかな」
そう言うと、
「だったらさ、そのとき、叔母さんからも説得してよ」
豪は思い出したように勢いづいて言った。
「説得って、何を?」
「姉ちゃんに迷わず歌手になれって」
「まだそんなこと言ってるの? あの話はもう」
そう言いかけると、
「あの後、宝生からまた連絡があったんだって。かなりしつこく何度もアプローチあったらしいぜ。あの超有名プロデューサーがそこまで執着するってただごとじゃないよ。やっぱ、姉ちゃんには類《たぐ》い稀《まれ》なる才能があるってことなんだ。さすが宝生。それを見抜いたんだ」
「でもねえ……」
「姉ちゃんの方もさ、最初は全く聞く耳もたぬって感じだったけど、最近、ちょっと迷ってるみたいなんだよ。あそこまでアプローチされると。俺の感触では、誰かに背中をもう一押しされたら、決心がつくんじゃないかと」
「それがわたし?」
「うん。叔母さんなら、姉ちゃんも素直に言うこときくんじゃないかって思ってさ。俺がこれ以上言っても、喧嘩《けんか》になるだけだしさ。今日だって、またこの話になって、怒った姉ちゃんにたたき出されてきたんだぜ。この傘だってさ、男がもってもおかしくないような地味なの持ってるくせに、俺に恥かかせようとして、わざと一番ド派手なの貸しやがって」
「……豪。あんた、そんなに火呂を歌手にしたいの? 芸能人の身内がほしいの?」
蛍子がそう聞くと、豪が怒ったような声ですぐに言い返した。
「違うよ! 俺はべつに芸能人の姉貴がほしいとかで言ってるんじゃないんだ。そりゃ、いたら友達に自慢できるけど……。そうじゃなくて、まじで姉ちゃんの声というか歌には何かあると思うんだよ。たんに上手いとか声質が奇麗だとかいう以上の何かが。叔母さんだって、前にそう言ってたことあるじゃん」
「まあね。わたしもそう感じたことはあるけれど……。今風に言うなら、癒《いや》しの力とでもいうのかしら。あの子の声を聴くと、どんなに疲れていても、すっと疲れが取れるというか、身体の隅々まで洗い清められるような気がするというか……」
「そうだよ。俺が言いたいのはそれなんだ。俺が海で溺《おぼ》れて死にかけたときのことおぼえてる?」
豪はふいにそう言った。
「ええ。五歳のときでしょ。あんた、浜辺で一人で遊んでいて波にさらわれて……」
助け出されたときには、豪の意識はなく、丸一日、病院のベッドの上で生死の境をさまよっていたことがある。
そのとき、火呂が何を思ったのか、夜、一人で浜辺に行くと、海に向かって即興の歌をうたった。それは、弟の魂を返してくれと海神《わだつみ》に祈る歌だったという。
その歌のせいかどうかは分からないが、明け方近くになって、豪は意識を取り戻したのである。
「……あのとき、今でもおぼえてるんだけど、俺、本当に夢の中で姉ちゃんの声を聴いたんだよ。真っすぐ続いている白い道を行こうとしたら、どこからか、そっちへ行っちゃだめだよ、こっちへ戻っておいでって。あ、姉ちゃんの声だと思ってその通りにしたら、助かったんだ。あれはただの夢じゃない。姉ちゃんの歌声には何かあるんだよ。母さんだって、それに気が付いていた。遺書の中でも書いてたじゃないか。火呂には不思議な力があるって。胸の変な痣《あざ》はその力の象徴だって」
豪は唾《つば》をとばすようにして熱弁を振るった。
「それに、いつだったか、俺、一人で母さん見舞ったとき、母さんが言ってたんだよ。モルヒネ切れて凄《すご》く苦しいときでも、火呂の声を吹き込んだテープを聴いていると、まるで麻酔でもかけられたように、苦痛がすっと和らぐような気がするって。見えない手で全身を優しく撫《な》でられてるような気がするって。あの子の声には何かある。本当に不思議だって。あれだけ全身に癌が回って苦しみ悶《もだ》えて死んだのに、母さんの死に顔がわりと安らかだったのも、姉ちゃんの声の入ったテープを意識を失う直前まで聴いていたせいだと思うんだ。医者だって言ってたよ。ここまで来たら、普通だったら、もうとっくに死んでるって。それがあれだけ生きながらえたのは奇跡に近いって。俺のときみたいに助けることはできなかったけれど、でも、姉ちゃんの歌声は、確実に母さんの病気の苦痛を和らげ、少し命を永らえさせていたんだよ」
「……」
「母さんだって、もし、生きていたら、この話、絶対に反対しないと思う。きっと、やれって言うと思う。率先して応援するよ。だって、誰よりも、母さんが姉ちゃんの声、好きだったじゃねえか」
「そうね……」
甥の熱弁に動かされたように、蛍子は言った。
「叔母さんからも言ってやってよ。姉ちゃんも、心の中では、小学校の教師なんかよりも歌手になりたがってるんじゃないかと思うんだ。でも、母さんに義理立てしてるんだよ。我が子同然に育ててくれたことにさ。だから、自分が本当にやりたいことを我慢してまでも、小学校教師だった母さんの遺志を継ごうとしてるんだ。でも、そんなこと、母さんが一番望まないことだと思うよ。遺書の中にも書いてあったじゃないか。火呂の人生なんだから生きたいように生きろって」
「わたしもあの子の歌をもう一度聴きたいと思っていたし……。確かに、康恵姉さんが生きていたら、応援するかもね。わかった。今度の日曜にでも訪ねてみる。それで、その話、わたしからも勧めてみる」
蛍子はついにそう言った。
「え。まじ? やったー」
豪は小躍りして大喜びした。
「やったーって、気が早いわねぇ。まだ何もやってないじゃない。勧めてみるって言っただけで、まだあの子が承知したわけじゃないのよ」
「叔母さんが後押しすれば百人力。もう説得したも同然さ。わーい。これで学校で自慢できるぞ。あの宝生がプロデュースする新人歌手の弟となれば、俺も一躍有名人の仲間入りだ。そうなれば、女なんか向こうから群れをなして寄ってくるぞ!」
「……ちょっと、あんた、珍しくまともなこと言うなって思ってたら、やっぱり、そんな下心があったのね。動機が不純なのよ」
蛍子は苦笑しながら言った。
「叔母さんだって、有名芸能人の叔母ということになれば、今までまーったく来なかった縁談が降るように来るかもよ。急に男にもて出すかもよ?」
「またその話。あんたはいっつもそこに話を持っていくんだから!」
蛍子は、軽く片手で甥の肩をつきとばすような仕草をした。
「おーっとと。あぶねー」
豪は大袈裟《おおげさ》によろけた振りをして車道の方に少しはみ出した。
その瞬間だった。
それまで二人の背後を駅舎からずっと尾行するようにのろのろとついてきた黒塗りの国産車が、突然、土砂降りの雨の中を、二人めがけて突っ込むように突進してきたのは。何が起きたのかは分からなかった。
どーんという異様な音と凄まじい衝撃を感じた瞬間、蛍子は地面に叩《たた》きつけられて、そのまま気を失った。
柄の折れ曲がったピンクの傘が宙に舞った。蛍子が最後に豪を見たとき、豪は真昼のようなヘッドライトに照らし出されて、おどけたように笑っていた。