十一月十四日。土曜日の午後だった。
地下鉄の切符売り場で切符を買っていた新庄武は、肩をポンと叩《たた》かれて後ろを振り向いた。
目の前には白い花束を抱えた三十前後のがっちりした体格の男が立っていた。
「……芝浦先生?」
その髭《ひげ》の剃《そ》り跡の濃い顔を見るなり、武は懐かしそうに言った。
目の前にいたのは、武が高校二年のときまで、ボクシング部の顧問をしていた芝浦という体育教師だった。高三のときに、芝浦は都内の別の高校に転勤になり、それきり会っていなかった。
「やっぱ、おまえだったか、武」
その男もとたんに笑顔になった。
「おまえ、今、そこの図書館から出てきただろう? 武に似てるけど、なんとなく感じが違うし、俺の知っている武なら図書館なんて行くはずないしと思って、声かけようかどうしようか迷いながら……」
「ここまで尾《つ》けてきたの? モーホーストーカーみたいに」
「馬鹿者。かりにも恩師をつかまえて、ホモストーカーとは何をいうか。たまたま行き先が同じだっただけだ。おまえ、図書館で何してたんだ?」
「何してたって……図書館って、普通、本読んだり勉強したりするところでしょ」
「普通はそうだろうが、おまえは何してたんだ。司書のお姉さんをナンパしてたとかじゃないだろうな」
「……勉強してたんですよ」
武は憮然《ぶぜん》とした顔で答えた。
「勉強?」
「受験勉強」
「おまえの辞書に受験勉強という四文字があったのか」
「ありますよ。図書館という三文字も」
「いやあ、これはたまげたこまげたひよりげた」
「先生、早く切符買ったら?」
武は冷ややかに言った。
「そういえば、おまえ、今浪人してるんだってな。風の噂で聞いたが」
「だから、来年、雪辱をはらそうと頑張ってるわけで」
「これからどこへ行くんだ」
「うちへ帰るんですよ。先生こそ柄にもなく花束なんかもって、まさか、これからもの好きな女とデートとか?」
武は茶化すように言った。
「そんな楽しい話ならいいんだけどな」
芝浦の顔が曇った。
「だって、花束なんかもってるじゃん。一人暮らしの侘《わび》しい部屋に飾るんだなんてキショイこと言わないでよ?」
「見舞いだ。病院に行くんだよ、これから」
芝浦は真顔で言った。
「見舞い?」
「ああ。教え子が事故ってな……」
芝浦の話では、四日ほど前に、転任先の高校の男子生徒が学校帰りに車に撥《は》ねられるという事故に遇ったのだという。
「……教え子っていっても、おまえ同様、ボクシング部の顧問と部員って関係だけどな」
芝浦は転任先の高校でもボクシング部の顧問になっていたらしい。
「そいつもボクシングやってたの?」
「照屋豪っていうんだが……」
「それで、そのテルヤとかいう奴の容体はどうなの?」
冗談好きだった芝浦の顔がこれほど深刻になったところを見ると、その男子生徒の容体はあまり良くないのかなと武は思いながら聞いた。
「うむ。それがかなり危険な状態らしい……」
「危険って……?」
「電話で聞いた話では、車に撥ね飛ばされたとき、路上にしたたか頭をぶつけたらしくて、脳をやられて、ずっと意識不明の危篤状態が続いているというんだ」
「ふーん……」
「危篤といえば」
芝浦ははっと思い出したような顔になって、武の全身を上から下までじろりと見渡すと、
「おまえはもう大丈夫なのか」
「え?」
「あの事件だよ。ほら、おまえが連続殺人犯に襲われたっていう。ニュースで聞いたときは飲んでたお茶を吹き出すほど驚いたんだぞ。超高級玉露だったのに。全身めった刺しにされて重体だって聞いていたんだが」
「今はこの通り」
「ピンピンしてるじゃないか。おまえ、本当に襲われたのか?」
「こう見えても俺も生死さまよったんだよ、一時は。今はなんともないけど」
「そうか。まあ、何はともあれよかった」
芝浦はいささかピントのはずれた喜び方をしたあとで、
「そうだ。おまえもこれから付き合え」
突然ひらめいたように言った。
「付き合えってどこへ?」
「照屋がかつぎ込まれた病院だよ」
「病院へ? 俺も?」
武は露骨に迷惑そうな顔をした。
「そんなヤな顔するなよ。相変わらずつれない奴だな。一度くらい付き合えよ。武チャン」
「そういう言い方するからモーホーと間違われるんだよ、先生。ボクシング部の連中が陰で先生のことなんて言ってたか知ってる?」
「知りたくもねえよ。どうせうちへ帰るだけなんだろ? 暇なんだろ? それともなんか用でもあるのか」
「別にこれといって用は……」
「だったら一緒に行こうや。ここでばったり遇ったのも何かの縁だ。見舞いと言っても、たぶん本人の意識はまだ戻ってないと思うから直接面会はできないだろうし、付き添いのご家族の人に挨拶《あいさつ》して、花渡してくるだけだからよ。ほんの十分程度で済むよ。おまえは下のロビーで待ってろよ。そのあと、どこかで飯でも食いながら、積もる話をしようや」
「うーん。先生と積もる話するのは別にいいんだけどさ、俺、病院って苦手なんだよね。あの消毒臭さとかさ。それに、テルヤとかいう奴とも面識ないしさ。知り合いならともかく、ぜんぜん知らない奴の見舞いなんか……」
武はあまり気の進まない顔で後込《しりご》みするように言うと、
「それがな」
芝浦がさらに何か思い出したような顔で言った。
「その照屋って奴、おまえとまんざら無関係でもないんだよ」