照屋豪がかつぎ込まれたという救急病院に到着すると、「おまえはここで待ってろ」と芝浦は武を一階の広い待合室に残し、エレベーターで上に上がって行った。
待合室の椅子に座って、武が待っていると、二十分ほどたって、芝浦が一人の若い女性を伴って下に降りてきた。
自分の方に近づいてくるその若い女性を一目見るなり、武は、声をあげそうになって、片手で思わず口のあたりを押さえた。
モヘアのセーターに白いスラックス姿のすらりとした細身のその女の顔が神日美香にうり二つだったからである。
髪形も肌の焼け具合も違っているから別人だということはすぐに分かっても、顔立ちは双子といっても通るほどに似ていた。
芝浦と一緒に下に降りてきたということは、まさか、この女が……。
そう思って、その女の方を凝視していると、「おまえ、なんて顔してるんだ」
目の前に来た芝浦が呆《あき》れたように小声で言った。
「いくら相手が美人だからって、そんな今にも食いつきそうな目で見るなよ。正直な奴だなァ」
「あ、いや、そうじゃなくて」
内心の動揺を隠しようもなく慌てて立ち上がると、
「親戚《しんせき》の人にそっくりだったもんだから、つい……」
と言い訳した。
「この人が照屋豪君の姉さんで、火呂さんだ」
芝浦は連れの女性をそう紹介した。
やっぱり、この女が……。
照屋火呂は武に向かって軽く頭をさげた。
「これが今話した、元教え子の新庄武。たまたまここに来る途中、地下鉄の駅でばったり会ったんですよ」
芝浦が言った。
武もぺこんと頭をさげた。
「新庄……って、もしかしたら」
今度は照屋火呂の方がやや驚いたような顔で、武の方をまじまじと見た。
「そうなんです。あの事件の三人めの被害者だった奴ですよ。いやあ、奇遇というか何というか。あなたのことを話したら、その件で、ぜひお礼を言いたいから一緒に連れてってくれと、こいつにせがまれまして」
芝浦がそう言うと、
「お礼? わたしに?」
火呂は怪訝《けげん》そうな顔をした。
「あの電話かけてきたのあなたですよね?」
武はいきなり聞いた。
「あの電話って?」
「犯人のPHSに。彼女の弟が死んだとかいう内容の」
「ああ……」
火呂はすぐに思い出したように頷《うなず》いた。
「わたしです。あのとき、沖縄のサッチンの実家からマンションの方に電話がかかってきたんです。ずっと重い心臓病で寝たきりだった弟の一希ちゃんが亡くなったという……。それで、すぐにサッチンに知らせなければと思って、彼女のPHSにかけたんです」
「あの電話のおかげで、俺、助かったんですよ」
そう言って、武はそのときの模様を詳しく語った。
「そうだったんですか……」
火呂は話を聞き終わると、感慨深げな表情で言った。
「だから、あなたは俺の命の恩人なんです。それで、一言お礼言いたくて」
「……そんな。命の恩人だなんて」
照屋火呂は困ったように言った。
「わたしはただ電話をかけただけなのに。サッチンに一刻も早く一希ちゃんのことを知らせようと思って。サッチンは凄《すご》く弟思いだったから。あの事件もそのことが原因で。でも、わたしがしたことで、あなたの命が助かったならよかった……」
火呂の沈んでいた表情に、ほんの一瞬だが、明るさが戻った。
「それで、弟さんの容体はどうなんですか。まだ意識は戻らないんですか」
武は心配そうに聞いた。
「ええ。それが……」
倒れたときに路面に後頭部を強く打ち付けて、そのときに脳の深い部分がダメージを受けたらしく、たとえ意識を取り戻したとしても、手足のマヒなどの身体的な後遺症が残る可能性がある。さらにごく稀《まれ》なことではあるが、このまま意識不明の昏睡《こんすい》状態が何カ月も続くこともありうる……。
医者にそういうケースもあるので覚悟しておくようにと言われたと火呂は語った。
「で、犯人というか車を運転してた奴は捕まったの?」
武はさらに聞いた。
火呂は怒りを含んだ表情で首を激しく横に振った。
「……轢《ひ》き逃げ?」
「事故のあった夜は雨が激しく降っていたのよ。そのせいで視界が悪かったのか、雨でスリップでもして運転を誤ったんじゃないかって警察の人は言ってたわ。それで、二人も人を轢いてしまったことで気が動転して、慌ててその場を逃げ出してしまったんだろうって。こうした轢き逃げ事故にはよくあるケースなんですって。でも、こういう場合、後で後悔して自首してくることもあるからって……」
「二人も人を轢いた……って、事故にあったのは豪君だけじゃなかったんですか」
「叔母も一緒だったのよ」
火呂はそう言って、事件当夜の模様を話してくれた。
「ただ、叔母の方は幸い軽い打撲傷と足首の捻挫《ねんざ》だけで済んだのだけれど。でも、豪があんなことになったのは自分のせいだと言って、精神的にかなり参っているみたいなの……」
「自分のせいって……運転ミスって歩道に突っ込んできた車の方が悪かったんでしょ?」
「でも、事故が起こる直前、叔母は弟と相合い傘で歩いていて、ふざけて、弟の肩を突き飛ばすような仕草をしたらしいの。突き飛ばすといっても、もちろん本気でしたんじゃなくて、軽く小突く程度だったらしいんだけれど、弟がふざけて大袈裟《おおげさ》に車道側によろめいたらしいんです。そのとき、運悪く、車が突っ込んできて」
「……」
「だから、もし、ふざけてあんな真似をしなければ、たとえ車が突っ込んできたとしても、まともに撥《は》ね飛ばされることはなかったんじゃないかって。叔母はずっと自分を責めているんです。もし、このまま豪が意識が戻らず死んでしまうようなことになったら、叔母はそのことで一生自分を責め続けるかもしれない」
「だけど、意識を取り戻す可能性もあるんでしょ?」
武が言った。
「ええ。運が良ければ、意識を取り戻して、たとえ多少の後遺症が残ったとしても、その後のリハビリで治る程度の軽いもので済む場合もあるって……」
「じゃ、そうなるよ。俺もあの事件のあと、出血多量で一時は生死さ迷ったんだけど、結局、生き返って、今はこんなにピンピンしてるんだもん。前より元気なくらいだ。弟さんも絶対助かるよ」
武はそう言い、「あ、そうだ」と何かを思い出したような顔になると、着ていたシャツの首に両手を突っ込み、何かを手繰り寄せるように取り出した。
武の手に握られていたのは、紐《ひも》のついたお守り袋だった。
「これ、やるよ」
そう言って、その紐つきのお守りを火呂の手に押し付けた。
普通の布製の守り袋だったが、赤黒い染みのようなものがついていた。
「それ、あの女にもらったんだよ」
武が言った。
「あの女って……サッチン?」
火呂ははっとしたように武を見た。
「うん。あなたから電話があって、窓から飛び降りる前に、あの女、俺の手にそれを握らせたんだ。本当はカズキとかいう弟のために作ったんだけど、もう必要なくなったから、やるって言って。そこに付いてるの、俺の血だよ」
「……」
「おかしいだろ? 自分でめった刺しにしておいて、長生きしろよって守り袋くれる方も相当いかれてると思うけど、それを捨てもせずに後生大事にもっている俺も人のこと言えないよな」
武はそう言って自嘲《じちよう》するように笑った。
「でも、なんか捨てられなくってさ。生き伸びたのは、その守り袋のおかげかもしれないって気がして。後でおふくろから聞いたんだけど、病院にかつぎこまれて手術受けてる間中、俺、意識ないのに、その守り袋握り締めていたんだって。あの女が言ってたんだけど、沖縄には、古くから、『おなり信仰』とかいうのがあって、女が自分の兄弟を守るために、守り袋の中に自分の髪の毛を入れて、兄弟に持たせることがあるんだってね。確かめてみたら、その中に、本当に、髪の毛が入っていた。あの女のだと思う。ちょっと気色悪かったけど、その分、普通のお守りより効力があるかと思ってさ。ずっともってたんだ。それを弟さんに持たせてやれよ。効くかもしれない」
「わたしも同じものを弟に持たせていたんだけど……」
火呂は手の中の守り袋を複雑な表情でじっと見つめた。
「守り袋二つあれば効力倍増。霊験あらたか。きっと弟は生き返るよ」
「あなたはいいの……?」
「俺はいい。もうぜんぜん元気だし。だけど、もし、弟さんが意識取り戻したら、そのときは返してもらうよ」
武はそう言ってから、肩にかけていたナップザック型のバッグをおろすと、その中を探って、ノートを取り出した。頁の上の方を乱暴に引きちぎり、ボールペンで何か走り書きすると、その紙切れを火呂に渡した。
「これ俺の連絡先。何かあったらいつでもいいから連絡して」
「……ええ」
火呂は一つ頷《うなず》いて、武から渡された守り袋と紙切れをスラックスのポケットにしまった。
「じゃ、これで……。行こう、先生」
それまで二人のやり取りを傍らで黙って見ていた芝浦の方を促すように、武は言った。
「ちょっと待って」
火呂が呼び止めた。
「さっき、あなた……」
そう言いかけ、やや戸惑うように黙ったあとで、
「わたしを見て凄く驚いたような顔してたでしょ? 親戚《しんせき》の人にそっくりだとかで……」
思い切ったように聞いた。
「うん。びっくりした。俺の再従姉《はとこ》というか従姉というか……。あなた、その人にそっくりだったから」
「名前なんて言うの、その人?」
「日美香。神日美香っていうんだ」
「……」
「まさか、知り合い……じゃないよね?」
「いいえ」
しばらく沈黙したあと、火呂ははっきりと首を振った。
「知らないわ」
「あのさ……変なこと聞くけど……生まれつき、胸に痣《あざ》とかないよね? 蛇の鱗《うろこ》みたいな奇妙な痣とか……?」
「……ないわ」
「じゃ、いいんだ。やっぱ、他人の空似だ」
武はすぐに言った。
「でも、本当に、びっくりするほど似てるんだ。まるで双子みたいにさ」
武がそう言うと、照屋火呂は不思議な目をしてこう答えた。
「世界には自分にそっくりな人間が三人はいるんですって。わたしとその日美香という人もそんな三人のうちの二人なのかもね……」